本

『原発はもう手放しましょう』

ホンとの本

『原発はもう手放しましょう』
野中宏樹・木村公一
いのちのことば社
\900+
2015.1.

 バプテスト連盟の、しかも福岡の方であり、直接存じ上げる領域にあるので、発行されてしばらく手にとっていなかったことが申し訳ない気がする。もう四年も前に出ていたのだ。ブックレットのような形式だが、やや厚みがあり、読み応えもある。
 主張することははっきりしている。そして、2011年の東日本大震災による福島原発事故に基づいてのことであろうことも容易に想像がつく。が、その事故をきっかけに思いついたようなものではないだろう。そして、キリスト者としてあの事故に責任を感じていることを表明している。
 どうして事故に責任があるのか。これは信仰者でなければ、あるいは信仰者であっても分かりにくいかもしれない。私はよく分かる。私もまた常々、事にあたるときにそのようなスタンスでいるからだ。それは何も、自分が原発を止める運動をすべきだったというような、どこか見せかけの演技めいた後悔のようなものではない。あの原発事故には、たしかに責任者がいる。だから反対運動をするとなると、誰かのせいであってその責任を問うというような対決姿勢になりやすい。けれども、表向きではないにせよ、自分もまた加害者の中のひとりでいたのだという思いがどうしてもつきまとうのである。たとえば自分もまた、玄海原子力発電所の恩恵を受けて電気を使っていたのだとしたら、自分もまた原発によって生活が助けられていたのだという思いがするわけだ。そしてこのことは、「十字架につけろ」と叫んでいた群衆の中に、たしかに自分がいて、自分がキリストを殺したのだという意識をもつ信仰と、ある意味でパラレルである。
 さて、二人の著者がそれぞれに原稿を綴っているのが本書の構成である。ただ反対のための反対をするのでなく、オピニオンリーダーとして必要な知識を具え、広い視野を有しつつ騙る。
 野中氏は、3.11の時のことと現地で知ったこと、また福島から佐賀へ逃れてきた人との接触から分かることなどを交えて、この九州でどう考えていくかを思う。また、原子力の平和利用という言い回しで何がごまかされようとしているのか、にも目を覚ましている。教会はどういうふうにそれと向き合っていくのか、という牧師ながらの視点も忘れない。
 木村氏は、一神教が自然支配をもたらしたという俗説について少し考えてみる。また、国家の営みや社会経済の構造からして、原子力発電所の問題を指摘する。とくに、差別構造から駆り出された原発労働者の被曝問題は深刻である。差別問題に基づいて、人の命が軽視されているからだ。だから測定値を偽っている現実の指摘なども含め、殆ど怒りのようなものさえ伝わってくる説明である。しかしもちろん冷静に最後まで綴る。少し広い視野により、生命倫理まで踏み込んで、原発に対する危険性と、それへの行動を促している。
 とくに木村氏は「あとがき」で、四つの目標を設定したことを明らかにしている。「近代的自然・世界観と宗教との関係問題」「原発のアイデアを生みだす人々の意識と宗教者の責任」「差別の構造の上に成り立っている原子力発電所」「エネルギーの倫理」、たしかにそうである。
 他方、論じることができなかった点をも明らかにしている。「日本の原発企業が海外に市場を求めている問題」「原子力基本法第二条に書き加えられた言葉の問題」「世界に原発を拡散させたNPT体制の問題」だという。しかしこれらに言及するには、もっとずっと厚い本となったはずである。まずはこの126頁の本で十分である。これをテキストに学習会をするのもよいだろう。まずは一定の知識が必要であるのと、大切な気づきというものが求められるように思う。そのひとつとして、私はやはり、自分が責任を感じるという信仰的な感覚というものがあるような気がしてならないのだが、どうだろうか。




Takapan
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