本

『学力喪失』

ホンとの本

『学力喪失』
今井むつみ
岩波新書2034
\1160+
2024.9.

 元来、教育のために何かをしようとしていた人ではない。肩書きは基本的には「認知科学」の研究である。あるいは「言語心理学」でもある。かろうじて「発達心理学」という看板が、教育には関わると言えるかもしれない。だが、ここへきて、小中学生の学力を量る「たつじんテスト」を開発し、有効なデータを得ている。こうした背景を踏まえて、認知科学や言語心理学の分野でも注目され、新書などを中心に、よく読まれるようになっている。
 今回この「学力喪失」というショッキングなタイトルの新刊が出て、予約までして購入した。期待した以上のものを覚えた。具体的な内容は本書をぜひ細かく参照願いたい。一つひとつの実験や調査のレポートが、参考になることだろう。教育畑の人であれば、言っていることの意味が分かるはずである。
 どうして説明を丁寧にしても分かってくれないのか。それは、その子どもそれぞれに、「着地」すべきところの有無が異なるからだ。本書では専門的な用語であるだろう「記号接地」という語が用いてある。言語化するということは、記号というものと、経験や知識がつながることである。問題文を読むというそのことだけで、その言葉を理解しなければならないし、その問題を解決するためにどうするかということも、言葉を介して知識がつながつてゆかなければならない。こうした記号なる言語が自分の血となり肉となるような、実感をもつ段階ができているか、あるいはできる備えがあるかどうか、その辺りが問題なのである。
 それがないと、どんな新たな問題に遭遇しても、自分が把握できる範囲のことでしか捉えようとしないし、そこでできる結論に早急に走ろうとするだけとなる。算数の文章題がその典型であるのだが、そこに見える数字を、思いつくままに足したり引いたりすることを繰り返して解答する、ということをする子は、見たことがあるのではないだろうか。あるいは、自分がそうだった、と思う人がいるかもしれない。
 そのあたりの事情を、著者が他の本でも説明している「スキーマ」などの語を使って説明する場面も多い。だが、それぞれ説明がなされているので、文章読解に不自由のない人であれば、理解に困難はないものと思われる。
 子どもたちは、私の言葉でいうこの「着地」ができないでいると、多分に焦る。指名されてひとり教室で立つとき、どんなに動悸が激しくなることだろうか。しどろもどろになるということは、容易に想像がつく。すると、訳の分からない式をあみだすのも尤もである。このとき、「失敗してはいけない」という心理が前提にあると、なおさらであろう。「なぜ」を質問できる環境をつくること。教師には、これが一番なのである。著者の指摘は、一部の教師には痛いのではないか。
 そもそも数字の「1」も、かなり抽象的である。リンゴも「1」、猫も「1」、地球も「1」などというが、それは凡そ共通点のないようなものばかりである。やっと整数が分かったとしても、小数や分数、とくに分数となると、中学生でもその概念がつかめていないケースが多々あるのだという。こうした事例を著者は丁寧に辿りながら、一つひとつの論を進めてゆく。非常に読みやすいと思う。
 だが、最後に、まるで付け足しのように「AI」が登場する。丁寧にいうと「生成AI」である。元来実現不可能に見えた人工知能だが、ChatGPTがすっかり空気を変えた。著者は、それでも、こうしたAIにできないことを冷静に見抜いている。そこはAIの大本であるような、認知科学のプロである。しかし、AIは役に立たない、という結論を導くつもりはない。他方、AIは教育上危険だ、と言いたいのでもない。ある観点を踏まえた上で利用することにより、人間にも良い効果を生むことがあり、他方、いまありがちだが、自分で考えようとしない子をつくりだすような社会になると、非常に危険なことだ、と警告している。この警告は、ともすればマスコミがまたすぐに誇大広告まがいに、センセーショナルに伝えようとするかもしれないが、そこがいけない。まるでマスコミまでもが、よく考えもしないでへらへらと目の前の雑誌が売れ、視聴率が取れればそれでよい、と無責任にやるように見える。それこそ、「自ら考えることを放棄する」ことであり、子どもたちがなってはならない悪い見本を、大人がやりまくっていることになるであろう。
 私も賛同するが、著者は、<「なぜこうするとうまくいき、なぜこうするといまくいかないか」、つまりものごとの仕組みを発見すること>を、実は乳児がしたいのであり、これが人間の思考を形成してゆくとするのである。この「世界の仕組み」の理解の先に、言語が成り立ち、科学や数学、そして芸術がさらにその先にある、というのである。ここに「記号接地」というものの本質があるのだ。
 現場の教師は、子どもの代わりに考えてやることをしてはならない。教師は、子どもたちが自分の説明をどのように受け止めているか、知らねばならない。概念の本質を自分で掴んでゆく営みを、子ども自身がしなければならないのだ。子どもが自分で経験して、自分の実感を以て、言葉を知ってゆく。そのためには、間違いや失敗はつきものである。多くの失敗を経てこそ、自分で泥まみれになって世界とぶつかってゆくことができる。教師はそれが安全に出来るように、環境を調えるのが仕事なのだ。
 最後に著者は、「効率性」を求めて物事に対することの空しさと危険を指摘する。文明や文化をつくったのは、それとは真逆の、無駄な時間や費用を用いて、何かを続けた人々なのである。「生きるために、よりよいものを創造するために、あがき続け、失敗を繰り返しながら、探究を続ける人間の姿」の尊さを分からない者出会っては鳴らない。そうした者を生むような社会であってはならない。自分で判断ができる人になってほしい。自分の身体で世界を探索し、記号接地することが、如何に大切か知ってほしい。
 著者の願いを暴露してしまったかもしれないが、私はこの情熱を買いたい。また、そのための一端に触れる者として、これを弁えて、子どもたちと向き合っていたい。私のポリシーもまた、殆どここで願われていることと同じだからである。




Takapan
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