本

『学力を育てる』

ホンとの本

『学力を育てる』
志水宏吉
岩波新書978
\735
2005.11

 初めに、著者の生い立ちが語られる。それも、半端じゃない。延々と、自分の学校生活のことを、しかも淡々と語り続けるのだ。
 変わった、教育論である。まず自分の身を明かす。だがこれは、実に大した知恵だと思う。大上段に構えて、あるいは高みの見物もどきに、偉そうな教育論を吹聴するかのような、そんなご高説には、辟易している者としては。
 いやはや、それは私のことかもしれない。おまえは何者だ、などと飛んでくる矢を避ける術を知らない。
 それにしても、実に分かりやすい説明をする著者である。これほどに堅い内容でありながら、実に明晰に話を続けていっている。優しい言葉遣いで、特別な専門用語を連ねることもなしに、よくも、である。やたら難解な用語を並べるのは、当の本人が実は何も分かっていないことが多い、という真実を持ち出すまでもなく、この著者は、物事がよく分かっているに違いない。
 学力という、日本独自と言ってよいような曖昧な言葉の定義にも余念がなく、ぐいぐいと押してくる。有名な説には、適宜自らの賛成の度合いも説明するなど、とにかく誠実に事に当たっているという印象を与える。
 さて、内容についてだが、一つうなずけることには、一種の文化とも呼ばれるような、その地域の習慣めいた部分についてである。それが地域であるがゆえというかどうかは別として、どうしてもその家庭や環境により、学習というものに対する意識が違うというのは、否めない。学力をつけることが人間において至上命令であるという意味ではないにせよ、多くの語彙できちんと説明しようという文化をもつ生活ゾーンと、少ない語彙で感情的にのみ理解し合おうとする生活ゾーンとでは、学習という事柄に対しての必要度も達成度も変わってくる。
 私もまた、きちんと説明をしようというタイプである。なあなあで、みんな誰かに従ってついてきていればいいんだ、とは思わない。だから、衝突もする。自ら考えようとせずただ流れに乗り、自分もまたその流れを作っているという自覚もなしに、責任感すら覚えぬ方々に対して、賛同できないことがあると表明すれば、たちまち村八分に遭うことになる。こういう私に対しても、言葉によって、こういう訳なので、という説明をしてくれれば、こちらも自らの誤りや見落としに気づくこともできる。だが、えてして、それが全くなく、ただ闇雲に同じ言葉をくり返すばかりで、理由の説明すらないままに、まるっきり説得も何もしようとしないことが続くので、いったいこれは何なのだろうと訝しく思っていた。だがこの本で判明したのは、彼らはそういう文化なのだ、ということであった。
 変な話だが、絵本の読み聞かせというのは、その点、子どもに、語彙の豊富さへの憧憬を誘い出す点でも、実にすばらしいことなのだ、と改めて感じた。
 この本の終わりのほうでは、地域がつくる教育という、大切な視点が、実現可能なプランと共に、提案されていた。だが、学校の現実や子どもたちの学力調査などから綿密に子どもたちを探って築き上げてきたそれまでの理論とは異なり、この最後のプランでは、大人や社会の現実や知力などへの理解がなされないままに、ただ子どもをとりまく大人一般としてのみ、すべての老若男女が学校を中心にコラボレーションできるかのような幻想を前提としているかのような印象を受ける。それまで文化の差を力説していた著者が、突如として、学校をとりまく大人たちの文化が何の問題もなく一体化するかのように話を進めるのは、納得し難い。
 地域による地縁を重視するのは、関東のやり方に対する、関西文化の著者の意地かもしれないが、近い地域に住むがゆえに地縁であるとする前提には、スタートから無理がないだろうか。むしろ、大人たちもまた、子どもたち以上に、学び成長することが求められてもよいのではないだろうか。大人たちは完成した域にあり、地域の大人たちが子どもをまるで養殖のように育てるのだというふうなイメージと重なることのない、大人たち自身が成長するプログラムが、学校をも包み込みながら展開していく姿はないだろうか。子どもたちから大人たちが学ぶスタンスを、強調することはできないだろうか。学力を育てるのみならず、大人もまた育つ可能性を、示唆してもらえなかっただろうか。
 だがまた、こうした思いを生み出す点だけでも、この本がいかに読む価値のある優れた本であるかが、分かるであろう。




Takapan
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