本

『雅歌 日本版インタープリテイション79号』

ホンとの本

『雅歌 日本版インタープリテイション79号』
ATD・NTD聖書註解刊行会
\2100+
2010.8.

 地味だが、トレンディな論文を掲載して公刊している。北米で半世紀に渡り出版が続いている。しかしキリスト教関係者の中でもあまり知られておらず、読み手も限られるのか、経営的には苦しかったようだ。これもATD・NTD聖書註解刊行会となっているがその後聖公会出版に権利を委ね、さらにその聖公会出版も解散となって、ついに日本語版は出版できない状態になっているのだという(2018年春現在)。この聖公会出版の在庫書籍が一斉にTSUTAYAに流れて、そこで新古書扱いで格安で販売されているのを私が見つけ、時折購入しているという具合である。
 雅歌はとくに、つかみどころのない書でもある。そもそも聖書に組み込まれる段階から一悶着あり、内容のどこが神のことなのだ、という人々と、霊的にここに神と人との関係が描かれていると受け取る人々との間で、現在に引き継がれている。通常の論理では把握できない。旧約は詩篇などもそうなのだが、論理やストーリーで流れているのでなければ、様々な読み替えや解釈の違いがあり、日本語訳でも翻訳によってずいぶん異なる場合がある。その日本語でしか理解できない私のような者には、出会った邦訳によって受け取り方が決定されてしまう場合もある。広い見識をもつ方々が原典から受け取ったもの、あるいは歴史的背景などを調べた研究者の指摘に耳を傾けることは有意義であろうと思われる。
 しかしまた、己が神と対峙してこの歌から受け取るものももちろん否定できないし、それを尊重すべきだとも言える。言葉を超えたものがそこに伝わってくるならば幸いである。
 この「まえがき」において、1+1がいつも2となるわけではない、それが愛というものだ、と打ち出している。私もそれには賛同する。さらに言えば、愛こそ自由のなせる業であると考えて止まない。原因や理由があって愛するということはできないからだ。そしてそのことをまさに私たちは自由と呼んでいるからだ。
 雅歌についての特集論文は「雅歌における自然・人間・愛」「愛の数式」「日の喜びと雅歌四章一−七節」そして「雅歌――牧会ケアのための隠喩――」の4本である。美学との兼ね合いは私には難しかったが、最後のカウンセリングの話はかなり心を寄せられた。たんなる聖書解釈だけでなく、それを実践に活かすのに、なるほどこうした視点があるものかと驚いた。特にここには、鬱に悩む人のために雅歌が如何にヒントを与えてくれるのかを示しており、興味深かった。鬱に苦しむ人に癒しを与えるメタファーの意味を筆者は伝えようと努めている。もちろんそこにはカウンセリングの知識や実践が伴うものであろうが、教会における牧会という分野には、魂を配慮することにおいて、まさにこのような対応が求められて然るべきものであろう。雅歌のもつ、愛の対話という場は、聖書の他の個所では見られないものである。自らを超えていくという営みにおいては、この宗教的な行為と性的なものとが重なり合うことがありうるのであるのだ。これには肯ける。
 カウンセリングを求める人、教会に相談に訪れる人、いずれもなるほど「愛」を求めている。愛の求道者であるというのは、ふざけた意味ではなく、まさに教会の存在意味でもあることだろう。もしかすると、それが欠落しているからこそ、この論文がずんと心に響いたということなのかもしれないし、この提言が世に出されたのであるのかもしれない。
 その他、雅歌とは関係なく最新のテクスト理解と書評も掲載されており、このシリーズ、少しばかり過去のものであっても味わい甲斐がある。埋もれさせておくにはもったいない。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります