本

『市販本・新しい歴史教科書[改訂版]』

ホンとの本

『市販本・新しい歴史教科書[改訂版]』
扶桑社
\1200
2005.8

 図書館にはこういう本も入る。『市販本・新しい公民教科書[改訂版]』と共に、2006年度使用開始のものを、世に問うためということで出版することに漕ぎつけた。
 教科書問題の専門家にこそ、また調べて内容について教えて戴きたいのであるが、素人の者から眺めた印象というものを、ここに置いてみたい。
 見やすい教科書である。そして、うまいことが書いてある。ただ、うまいゆえに、ともすれば気づかず読んでしまい、するすると引きこまれそうな感じもする。ちょうど、「心のノート」と同様である。
 公民も歴史も、どちらもそうだが、はっきりした意図をもって編集されているものである。そのことは、「市販にあたって」「ポイント」といったあとがきにおいても、明示してある。しかし、それ以上に、私が感じたのは、これらの教科書の底を流れている響きである。音楽で言えば、通奏低音。派手に響くことはないものの、全体を支える大切な響きである。すべての音が、この低音に乗って流れていく。
 それは、すばらしい国・日本があってこそおまえはあるのだから、おまえは国のために命を捧げよ、というふうに聞こえてくる。
 この両面のために、よく考えてみれば怪しいのに、尤もらしく描かれてくるコラムがたくさんある。
 たとえば歴史において、どうして日本神話について特別に二度も頁が割かれるのか。それは歴史ではないはずである。
 津田梅子がクローズアップされたのも、そのコラムの最後で国に犠牲を払うことの尊さを口にしたことを称えるためであった。
 杉原千畝も文句なしに称えられているが、それが国の指示に逆らっていたということは何も臭わせておらず、情緒的に「手が腫れ上がるまで徹夜で」などと熱く語られているだけである。
 逆に、歴史上批判されそうな事柄については、故なきことではなかった、と批判をかわす書き方をしている。そもそも故なきことは一つもないのだろうが、この言葉により、秀吉のキリシタン迫害も、まるでキリシタンこそが悪かったのだ、という印象を与えるようにできている。いや、そのあたりの記述は、しきりに「キリスト教」の文字を羅列し、それが敵視されるように導いているように感じられてならない書き方である。全体的に、キリスト教というものは、外来の信用ならないものであるという低音が響いていることを、私は感じる。それに対して、日本神話は歴史なのだ。
 とにかく、明らかな意図があって記されたものであるから、おとなしくその言葉を繰り返し読むことにより、その低音の響きが自分の中に染みついてしまうことを狙いとしている限り、どんなに自分の教科書を自慢しようが、それは教科書ではないと感ずる。自国を誇りに思う方法は、他にあるのではないか。
 もちろん、自国を称える教科書というものは、外国にいくらでもあるだろう。だが、滅私奉公をほかでもない日本人に対して正当なものとして植え付けることに対しては、危険性が懸念されても仕方があるまい。個人意識が実は強くない風土である。場合によっては一気にこの空気が日本全国を覆うという可能性がある。そして編者たちは、それを望んでいるものであろう。
 他の教科書は自信がないからこのような形で世に問わないのだろう、という主旨のことが、あとがきに記されている。私はふと、異端と呼ばれるキリスト教に似たグループたちが、同様の強気の発言をしがちなことを思い出した。
 タイトルにある「新しい」というのは、「古い」と言わせないためのカムフラージュであるというのが、全体的な印象であった。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります