本

『ふるさとの詩』

ホンとの本

『ふるさとの詩』
白岩健二
文芸社
\1,800
2004.2

 サブタイトルに、「戦前・戦中わが少年記」とある。自分の子どものころのことを思い出しつつ綴ったような雰囲気である。それは、おとなの目から見て、そのときは実はこうであった、というような、ずるい書き方はしたくない、という思いから綴られている。この点がいい。過去の自分の子ども時代を描きながら、今の子どもたちに何を伝えたらいいだろう、という意識をゆるがせにしなかったということである。それは、まえがきで明らかにしているように、未来に思いをはせることでもある。
 だから、自分史とか自伝とか呼ばれるに相応しいジャンルなのである。
 私が共感した本に、妹尾河童さんの『少年H』というものがある。これもまた、少年であった戦時中のことを描いた名作である。しかし、そこには正面切った戦争批判のようなものが記されていた。この『ふるさとの詩(うた)』の場合はそれとは違う。ほとんどそういう批判は見いだせない。というのも、まるで戦時中も実は戦争に疑いをもっていたのである、というふうな本をよく見るが、当時そんな疑いを持つことなどできないのではないか、と作者が考えているからである。後の歴史の眼差しから、当時を評価することはできない。当時生きた者は、当時の空気と痛みの中で人生を刻んだのである。それを未来の歴史観から歪めることはできないのである。
 しかし、どうしても筆が緩み、それをやっているような場所が目につかないわけではない。私はたとえぱ261頁に注目する。昭和18年、報道機関は「損害は軽微なり」の一辺倒に変わる。それ自体、怪しいことを意味している。筆者もそのことは押さえている。さらに、昭和新山の異変が、灯火管制に反するゆえに、軍部ではその上に暗幕さえ張ろうかという案があったという。しかし、「戦争中の大本営発表のように、真実を隠蔽しようとしても所詮隠し通せるものではないということがわかる」と結んで、ちくりと批判を提示している。
 この本に書いてあるのは、たしかに少年期の眼差しである。後世の感覚での綺麗事への書き直しなどはない。実はそこに、飾り気のない、ストレスのない子どもたちの姿を垣間見る。作者は、今の子どもたちにどんなことを伝えればよいか、と考えに考えて、この本をまとめている。戦争とはこんなものだ、生活はこんなふうになる、ということが明らかにされれば、戦争を知らない私たちのような世代は、きっと血眼になってすべてのすべてを読みとろうとするはずだ。その意味でも、説教臭くなく淡々と描くその時代の生活は、ありがたく楽しく読める。
 いや、私たちは知りたいのだ。戦争を知らない子どもたちは、あの戦争の現実は何だったのかを、できれば淡々と知りたいのだ。知らなければならないはずだ。綺麗事やオーバーな発言、後世の目から見た評価などでなく、そのときの純朴な気持ちと時代の変化とを、掛け値なしの姿で知りたいと願わざるをえない。
 この本の意義は、だから、たいへん大きいと思う。
 そしてまた、小さな悪を恐れるあまり、ついには大きな悪に走ってしまうことがある、今の子どもたちの弱さに対して、小さな悪を繰り返していた昔のありのままの姿が明らかにされることにも、大きな意味があるのではないかと思う。




Takapan
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