本

『ふり返れば、そこにイエス』/

ホンとの本

『ふり返れば、そこにイエス』/
上林順一郎
コイノニア社
\1600+
2006.4.

 いまはなきコイノニア社の優れたシリーズの一つ。副題のように「断想}と付け加えられている。説教の内容を踏まえてはいるものの、説教そのものではなく、また説教を書きかえるなど手を加え、一連の読み物として編集し直したものだという。しかし、学術的にまとめたものではなく、メッセージ性の高いものとして、これはやはり説教の部類に入れても問題がないくらい、聞きやすい、つまり読みやすいものとなっている。
 また、随所に心を抉るような言葉があり、視点がある。この視点というのは大切なもので、同じ聖書でも、どこから見るかによって見えてくる景色が全然違うものである。自分ではこれが真理と思い込んでいても、別の人が指摘する見方を見ると、全く違う景色が同じ聖書の箇所から見えてくるという次第である。それだから、説教を聞き、また読むことは止められない。しかも、一度聞けば理解できるように配慮されているものだから、分かりやすいはずなのである。また、表に出して恥ずかしくない内容であるはずなのが説教であるので、語る側は相当に調べ、準備をしている。内容が信頼できないはずがない。とくにこうした出版物はそうである。いわば気軽に読めて得られるものが大きいという意味では、優れた読書方法ではないかと私は思うのだがどうだろうか。
 本書は、マルコ伝を辿る旅を紹介する形で進む。副題そのものは「マルコ福音書16の断想」とはっきり書かれている。マルコの福音書は、福音書という世界初の分野を提示した画期的な書であったのだが、その始まりと終わりについて独特の印象を与える。福音のはじめという宣言から始まり、復活という最大のクライマックスにあっては、復活のイエスを描かず、怖かったという人間の心をぶつけてぷつんと切れる。途中の描写はきびきびとして、わざとらしく何かを伝えようとしているようには見えず、淡々と展開していくのだが、後のマタイやルカの書などがそれを引き継いだものとしてあり、それらと比較しても、決してマルコの書がレベルが低いなどとは見られない魅力をもっている。今回それを貫き、辿るのである。それは、イエスとともにガリラヤから旅を同行し、そして復活を描かないという描き方により、もう一度イエスとの旅を生きていくのがあなたの人生ではないのか、と導くようなトリックをもつ、とされている。私も同感である。
 そういった構造を保ちつつ、著者は、福音書の中の様々なエピソードを、旅の主人イエスと共に味わっていく。本のタイトルにもなった言葉が、ある箇所にずばりとある。著者がここに思い入れがあるのだということがよく分かるし、そのことを読者に強く印象づけたいと考えているのもよく分かる。もしタイトルでなくても、私はそこに心が留まったことだろう。
 心に突き刺さるものが随所にあると同時に、それが暖かさのようなものに変じていくことを、幾度と感じさせてくれる本であった。個人的に、ろばの話は、笑わせてもらうと同時に、涙が出るほど心が動いた。これは、妻の信仰のモットーなのであった。ろばそのものに焦点を当てた説教など、めったに聞くものではない。しかし、その話では、ろばが主役なのである妻は、自分はろばだと常々考えていたので、この説き明かしにずいぶんと慰められたという。手に取る機会は、古書を通してか、運がよければ図書館にあるかもしれないが、もし遭遇できたら、117頁以下は、どうか読み飛ばさないで戴きたいと願う。




Takapan
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