本

『福音書への道案内』

ホンとの本

『福音書への道案内』
伊藤慶枝
パピルスあい
\2310
2007.4

 福音書に興味のある読者に愛用していただけるようなハンド・ブックとして、友人同志のなごやかなグループ研究にも役立つようにまとめられたものです――という「はじめに」で始まるこの本は、カトリックの聖書研究者、伊藤慶枝の遺作である。
 副題に「キリストを知るために」とあるが、「キリスト教を知るために」ではない。
 ともすれば、キリスト教を知ろうという声がある。関心をもってもらうのはよいが、だんだんと、組織の問題や歴史の問題に流れていき、聖書そのものが置いていかれるようになる。では、聖書を知るために、というのはどうだろう。それも数多く出版されている。よいことだが、聖書にはこんなことが書かれてある、聖書の裏話みたいなもので満足するのが精一杯だ。
 聖書をとことん調べるのは、キリストを知るためであるにほかならない。そういう簡単なことに、改めて気づかされる、シンプルで内容の重い、そして祈りに満ちた研究書であると思う。
 以前、『マルコ福音書のイエス』をご紹介した。伊藤慶枝の訳であった。マルコの福音書のはさみこみ理論を丁寧に説いて全章たどる労作であった。この方法は、マルコのみならず、他の福音書にも適用されることを、この訳者は気づいていた。それで、自ら著したこの四福音書の案内において、その方法も取り入れている。ただし、マルコの訳書ほどに構図を徹底させているわけではない。
 この本で大切なのは、やはりキリストと出会うことだ。それぞれの福音書において、福音書記者の個性が出ているために、イエスは様々な描かれ方をする。しかし逆に、その描かれる手法を心得ておけば、その見かけの構成や演出の背後に潜む、キリストそのものの顔や言葉が見えてくるというのも事実だ。
 そのためには、著者が、自分の祈りと共に、聖書に向き合って、黙想を続けてきたことが大きいはずだ。神学者のだれそれはこんな説を……式の研究を集めたところで、これほどの息づかいの聞こえる本はできない。また、そういうのをつなぎ合わせてキリスト教入門を著したつもりにくるようなやり方でないことも明らかである。
 惜しむらくは、ヨハネの福音書の15章くらいで、筆が途絶えていることである。死期を悟ったせいか、慌てて16章の言葉や20章の一言にも触れるようにして幕を閉じているが、もうあとわずかの仕事をも続けられないほどに、病が進行していたのだろう。
 逐一詳しい引用や解釈を施しているわけではない。しかし、聖書を深く味わう者には、分かる。そのさりげない言葉が、聖書の深いところに触れながら、聖書全体をも覆うようにして告げられていることが。多くのインスピレーションを、ここから受けることができる。福音書を読もうと思っている方、とくにそこでキリストに出会いたいと願う方は、この本を横に置くことで、何ら自分の思索を妨げられることはないはずである。むしろ、自分だけでは気づけない風景が見える窓を、ほんの少し開けておいてくれているような配慮を、覚えるはずである。
 カトリックの方であるので、若干、プロテスタントと食い違う解釈を施している箇所がある。それも、私の目には、それを気持ちの上では強調して、プロテスタントではこう言っていないがカトリックが言うこちらの考えのほうが正しいのですよ、と言いたげな姿勢があるように見えてしまう。が、それがこの仕事の価値を減ずることはない。
 聖書の知識を身につけるためではない。聖書から次々と霊感が与えられ、生き生きと聖書の言葉がいのちとなって伝わってくるようになるため、あるいは、その言葉が読み手である自分の心の中で輝くような力となってあふれてくるのを体験するため、この手引きは大いに役立つであろう。専門用語は影を潜め、ひたすら日常の分かりやすい言葉で語りかけるように書かれてあるのも特徴だ。
 一つの挿絵もない、地味な本であるが、聖書とて同じ。たとえば聖書のグループ研究の場でも、役立つ一冊ではないだろうかと思う。




Takapan
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