本

『福音宣言』

ホンとの本

『福音宣言』
晴佐久昌英
オリエンス宗教研究所
\1400+
2010.1.

 カトリック界のカリスマ、などというとお叱りを受けるかもしれない。ただ、その活躍の目覚ましさと一般社会に与えた影響からしても、カトリックでは異例の人だと言えよう。
 本書執筆の前の赴任教会では、平均四日に一人の洗礼者を出している。その秘訣のようなものが、本書に記されていると言うと、関心を持たれるであろうか。
 タイトルからしても、読み始めてからしても、主張ははっきりしている。誤解の入る隙間はない。冒頭からして、「福音は、説明ではなく、宣言である」という1行からくる。最後まで、ひたすらこれである。
 最終章には、エッセイや軽い読み物を多く著しているこの司祭が、学問的なものを書くのは珍しい旨書かれているが、決してこれは学問というものではない。注釈などを入れていないが、などと触れられているが、当人が、学問的訓練を受けたわけではないから、と弁明しているように、確かにこれは学問ではない。
 では何か。各章が一つひとつ説教だと言われてもいいように思うが、聖句を根柢に置いているわけではないから、それともやはり違う。一本調子で、宣言の主語を次々を換えながら最後まで行ってしまうだけである。
 その主語を羅列してみると、神・福音・ことば・預言者・イエス・キリスト・ペトロ・パウロ・聖霊・教会・洗礼・ミサ・キリスト者、そしてわたしである。
 そもそも宣言とは何か。私たちは通常、宣教と呼ぶ。かつては伝道と言った。だがやはり宣言は伝道とは少し違う。伝道を含みはするが、伝道に制限されない。英語だと「proclaim」のことだろうか。キリスト教関係の本でもよく見かける表現である。だがこの著者自身が言っているのではないので誤解のないように。
 きっぱりと言うこと。その辺りでいい。信じているところを、迷いなく歪みなくただ言い切ること。それでよいのではないか。あるときには告白となるだろう。あるときには祈りとなるだろう。そして人前で言えば証詞となるだろうし、それが伝道にもなるだろう。
 宣言のなんたるかについては、21頁から、「定義」として掲げている。「宣言は、絶対の権威から、権威のもとにあるすべてのものになされる」「宣言は、対象のいかなる条件にもとらわれず、無条件になされる」「宣言は、宣言が完成するときまで、いつでもどこでも永続的になされる」「宣言によって対象が生起するのであり、宣言と対象は分けることができない」「宣言はことばとしるしで行われ、宣言されたことは、必ず実現する」「宣言の動機と内容は、いずれも愛である」「宣言は、取り消すことも変更することもできない」という具合である。こう並べられる徒、堅苦しい感じもあるが、しかし根拠が説かれているわけでもないから、やはりこれは学問というわけにはゆかない。「神と人とのかかわりの本質を再確認」するものであるというざっくりとした言い方で、肯いておくしかない。しかし私の理解はそう遠いところにあるものではないであろうと思われる。
 放送で聞いたことがあるが、この人は実際のミサでの語りも、愉快である。冗談も飛ぶし、こんな人がいましたという説明も、人を笑わせる要素たっぷりに話す。話に魅力を感じるというのはよく分かる。魅力ある話である。もちろん、福音についてのエッセンスを外しはしない。神はどんなに素晴らしいか、そしてどうであれあなたは救われている、大丈夫だよ、と声をかけてくる。厳しい罪の指摘をするタイプではない。だからどうかすると、何もせずそのままに救われていますよと宣伝しているだけのように聞こえるかもしれない。いや実際そうなのかもしれないが、人間の罪深さを考えさせるような向きで話をしていないのは確かである。しかし、神を信じましょう、という基本路線を伝えるとなると、確かに強いものがあると思う。
 もちろんカトリックであるから、マリアもそこに加わる。ミサというものの説明も、型で押したようなカトリックの教義そのままである。こうしたことはそれでよいのかという思いが私の中にある一方、その力で押し切ってくるのは間違いなく強力であるということも分かる。
 話は逸れたが、話が上手いため、本書でも唸らせるような比喩を持ち出し、読者に言わんとすることを伝えるのも一流である。見習いたいものがある。最後の、奴隷が解放されたというニュースを、まだそのニュースを知らない奴隷仲間に知らせるという描写は、福音のエッセンスのひとつを確かに明確に伝えるものだろう。
 最後の「わたし」のところでは、この福音宣言に関する自身の原点というものを紹介している。ああ、これを先に知っていれば、ここまでの全編の読み方も変わってきたのだ、と後悔した。なるほど、だからこんなことを言ってきたのだな、ということがよく分かる。その最初の思い出話というのが、神学生のときの研修体験である。長い入信生活で心身共に苦しんでいた患者に、聖書の説明をする。毎度の説明もきっと若い頃からお上手だったことだろう。しかし患者は、毎回、自分はどうしてこんな病気になったのか、と尋ねたと言う。神に愛されていないのではないか、と。説明も十分終わった。洗礼を受けませんかと誘うと、神の愛が信じられない、とその人が言う。そのとき、著者は心の中で、怒りのようなものを感じたという。こんなに努力して福音を教えても、一人のひとを信仰に導くことができないのは何故か。神が責任を取ってください。結果的にその人は洗礼を受けるのであるが、この神への問いかけは、私にはないだろうと感じた。その思いが芽生えた時点で、そうだ、この患者もこれと同じことを感じていたのだ、と気づかされるだろうと想像したのだ。こんなに真面目に生きてきたのに病気になるのはどうしてか、と。あるいは、悲しみはしても、怒りの感情は生まれてこなかっただろうとも思った。「こんなに努力して福音を教えても」というような発想はしたくないと考えるからだ。
 救いとは、こうした宣言を聞くことである、と著者は言う。やっぱり、私はカトリック信徒にはなれないと思った。福音を宣言するというのは、神の力に委ねることとして、すれが救いに働くことはそれなりに理解できると思う。だが、聞いた者の側で起こる出来事ということに全く触れることなく、救いが完成するかのように、語る方のある意味で自己満足のようなものだけを強調してよいのかどうか、私には分からない。どうしてもこうした形の救いというものは、神とその人との間に、司祭か誰かが入るような構造の中での発想であるように感じられてならないのだ。どちらが正しいなどという意味で言うのではない。私の出会ったキリストとは関わり方が違うようだ、というだけのことである。




Takapan
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