本

『福音派』

ホンとの本

『福音派』
加藤喜之
中公新書2873
\1200+
2025.9.

 大変売れていた。私も関心がないわけではなかったが、アメリカの政治そのものに多大な興味をもつものではないので、食指が動くというものでもなかった。サブタイトルに「終末論に引き裂かれるアメリカ社会」とついている。アメリカと福音派という関係は、そこそこ報道されているし、キリスト教会のおおまかな姿としても、知らないわけではないので、そんなに読まねばならない、という気持ちにはなれなかったのだ。
 だが、正直に申し上げるが、書店の古書コーナーで見かけたのだ。これはAmazonの古書でも、殆ど定価から値が落ちない。それが、半額で売られているのを見ると、買ってもいいかな、という気持ちになってきた。
 それにしても、サブタイトルには十分な情報が与えられている。「アメリカ」は「終末論」に「引き裂かれ」ているのだ。「まえがき」にいきなり明かされているが、「四割ものアメリカ人が世界は終わりつつあると信じている」とし、その割合は、アメリカ人の四分の一ほどを占める「福音派」では「六割を超える」のだという。
 どうしてそれが分断をもたらすのか。それは、いまや政治と宗教の境界線が曖昧になってきているからだ。世界は善と悪と二分されるという世界観。それ故にまた、それが政治的な視野で、権力者と同じ側に立てば、敵を悪魔として攻撃することになる。しかもそれが、神の御心だと確信している怖さがあり、自分たちのすることは、たとえ法令に反していようとも、正義だということで推し進めることを厭わなくなる。著者はこれを、「民主主義の終焉」であるかもしれない、と危惧している。
 本書が辿るのは、ほぼ19世紀辺りからである。感心するのは、宗教に疎い日本人のために、キリスト教の背景や用語、使われている概念について、丁寧で詳しい説明をたっぷりと施していることだ。聖書について何も知らない人に限り、アメリカ人の信仰について饒舌に語りたがることがあるが、読者がそのようにならないことを願う。ここにある説明は、本書を理解するための最小の知識である。新書で述べられることは、限定的である。むしろ新書を足がかりに仕手、より詳しい本や専門書に踏み込む方向性があるのだから、ここで得た知識は、まずはその世界を概観するために勉強させてもらった、とでも受け止めるべきであろう。だがそのためにも、誤解や思い込みなしに本書の描く事態を理解してもらわなくてはならない。私がいま言おうとしているのは、そのための用語理解である。そしてまた、著者の説明が、簡潔でしかも非常に的を射た仕方によるもので、非常に分かりやすい。流石と言っておけばよいのかもしれないが、教育関係のはくれに立つ者として、学ぶところがたくさんあると感じた。
 さて、ダーウィンによるキリスト教界のショックから、聖書理解も近代的なものの力が増してゆき、他方また、その反動も当然起こってくる。著者は早めに、「ディスペンセーション」という用語を定着させようとしている。「終末観」と漠然と捉えておいてよいかもしれないが、もしかすると「携挙」という説明は、もう少し詳しく枠をとってもよかったのではないか、と思われる。後にこれを修正してゆく立場も登場するので、可能ならば、聖書の言及をも挙げておくと、何に基づいてそれを唱えるのか、読者もより実感できたかもしれないと思う。が、新書というスペースでは、あまり聖書の引用を繰り返すわけにはゆかない、というのも本当だろう。
 このディスペンセーション主義は、19世紀末までにはアメリカのキリスト教徒の中に染み入ってゆく。それが、どんな人のどんな本がきっかけで、どんな組織ができて、というような点を、本書は実に詳しくきちんと押さえてゆく。これが非常にいいところだ。
 やがてラジオというメディアの登場で、事態は大きく進展する。また、「福音派」というものが、聖書を福音として本来普通に信仰を伝える立場であってよさそうなものだったのが、次第に浮世離れしたようなグループにずれ動いてゆく様が、この後にまたよく描かれている。著者は決して使っていない言葉だが、「狂信的」なもののように、日本の読者には目に映るかもしれない。
 そう。聖書を聖書としてそのままに信じる、というのは、日本でも多くの教会が基本的に表に出したい文句なのである。聖書は神の言葉であると信じています。教会の紹介に、しばしばそのように掲げられている。それは、異端と呼ばれるグループや、キリスト教のように見えながら実はカルト宗教と呼ぶに相応しい団体が、日本に於いて社会問題を起こしていることから、そうしたものと区別されるために、聖書を聖書として信じている、というような宣言をしているという事情があるからである。それらのグループは、大抵、聖書の他に聖典をもっている。教祖がつくりだした聖典によって聖書を解釈しているという構造がそこにあるのだ。
 さて、本書に再び戻るが、その内容をここで辿る暇はない。アメリカの政治に大きく関わってきたその福音派の姿が叙述されてゆくのだ。ニクソン大統領、カーター大統領ときて、福音派は大きな発言力を増してくる。アメリカは、人種差別問題を抱えながら、南北でいろいろ立場を異としてきたが、そうした社会問題と宗教問題は、やはりずっと背中合わせで共に動いてきていたのである。
 その政治を動かす背後にいた人物も随時取り上げる。そしてレーガン政権の中で、福音派はいっそう政治運動へと目覚めてゆくことになる。本書はここから10年刻みに取り扱うようになり、続く90年代には、クリントンが登場する。この頃教会の力は非常に多くなる。そしてその背景では、日本だけでなく、アメリカもまた、古き良き時代への憧れや、あの栄光よもう一度というような感情に包まれていたのだ。
 00年代はブッシュ大統領。但し、いきなりテロ事件が起こり、アメリカのある意味での暴走が始まる。しかしその中で、スキャンダルにより福音派は失速したこともあった。
 10年代前半はオバマの時代だ。黒人大統領の登場は福音派にとり都合が好いかと思いきや、福祉政策については白人の抵抗も強く、他方、ずっと福音派が抱えていた中絶問題を巡り、オバマは決して福音派の言いなりにはならなかった事情がある。
 10年代後半からは、専らトランプの話題である。必ずしもトランプは、奇妙奇天烈なことを言っているわけではなく、確かにアメリカ人の心を掴む言動を見せている。だがその中で、「キリスト教ナショナリズム」とでも言うべきものが、表立ってきており、いっそう「分断」がはっきりし、進められることとなった。福音派は福音派で、携挙までにもなおアメリカが自由な国であることを望みそのために働こうとするために、政治にコミットするのであった。その目から見れば、トランプは、ペルシア王キュロスのような存在に見えているのだそうである。
 今後のアメリカの動向が報道される度に、本書を繙くとよいかもしれない。背後にあるものについて少しでも知ることで、誤った判断をしたり、誤った世論をつくることに精を出したりしないように貢献することができる、そんな本であると見なしている。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります