本

『不安時代を生きる 哲学』

ホンとの本

『不安時代を生きる 哲学』
山竹伸二
朝日新聞出版
\1365
2012.31

 おとなの学びなおし。こういうコンセプトのもとに作られたシリーズの一つであるらしい。人気のある人や、こういう言い方が適切かどうか分からないが、ちょっと若くて生きのいい著者を集めて用いているようにうかがえる。
 分かりやすいとは思う。
 この本の場合には、ずばり「不安」という言葉を核として、つねにそこから離れずにあらゆる現象を見ていく。そこには特別な哲学的手法があるわけではなく、事象を様々に切り取って、すべてにおいて「不安」という切り口から説明していく。これもまた、哲学的なひとつの営みであり、何もそれが悪いなどということはない。また、キルケゴールとハイデガーとフロイト、あとヘーゲルやメルロ=ポンティ、ベックなどを取り入れながら、証言を増して行くことになるのだが、適宜多くの根拠を用いているかのようにも見える。
 その不安についての考察は、段階を踏んで行われる。本の初めのほうで、著者は不安を三つの段階に分けている。身体や死についての不安、他者との関係における不安、他者から承認されない存在価値への不安、という三つの区分を決定的な柱として論を展開する。つまりは、自己内、他者と自己の間、そして他者から見た自己というような観点であるが、そこには徹底的な自己への関心というものがある。だが、果たしてそれに尽きるものだろうか。自分のことはともかくとして、他の人や組織のために不安を覚えるということがありえないのだろうか。私はひとつに、そこに疑念をもつ。いや、それは「不安」ではない、と言われるかもしれない。「心配」であろう、などとことば遊びを持ってこられるとは思えないが、「不安」はその定義からして、自己に関するものでしかありえない、と言われれば、私の出る幕はない。だが、親が子の将来に不安をもつというのは自然な日常的な感情であるだろうが、この本にはその点は寸分も考えられていない。専ら関心が自己にしかないのである。
 本は、最後には自由の概念に至る。自分の不安を了解することで、しかも他人から見た自分というものを意識することにより、自分を理性的に律していくことで、自由を覚えることができ、不安は拭い去られるであろう、というようなおよその筋書きである。そこでは、できるだけ哲学者たちの定義した特殊な概念のための用語を用いないようにしているようにも感じられる。日本語の哲学用語はいかにも翻訳的であり、それだけで難解である印象を与えてしまうのだ。それを避けて、哲学とはそういうものではない、という宣言をしている著者であったはずなのだが、思想家の説を援護に用いるとなると、やはりどうしても出てきてしまう。それを著者自身が自覚して、その言葉の十分な解説を伴いつつ論を進めていけばよいのだが、その配慮があまりないので、平易な用語を使っているという前提の中でいるらしく、読者にとってはそれは何の意味だろうと思いつつだんだん言っていることが分からなくなっていくという事態を招いているような気がした。後半の端折り方にそれは顕著である。
 そのことは、見かけの用語に限らない。たとえば、心に関して、歪んだ、としきりに繰り返されるところがある。が、何をもって歪んだとするのか、明確には伝わってこない。ワイドショーや週刊誌で「心の闇」と判で押したように用いられる調子で使っているのだろうか。しかし、不安の背後を分析するという細かな作業をしている中で、歪んだ心を直す、と安易に言い放たれても、果たして何が歪んでいるのか、歪んでいない正しい心とはどのようなものであるのか、疑問をもつ読者は少なくないだろう。暗黙の了解のように、歪んだ心理が前提されているのだが、そのようによく分からない基準で「歪んだ」心が特別に取り沙汰されなければならないのか、私も疑問に思う。
 また、自由論のところでは、極端な例で言えばアウシュビッツの中でも自由を感じられる、という朗報のようにも聞こえたが、逆に、そうした極限状態の中でも自由はありうるのだという、制圧行為を正当化し、危険な弁護になりかねない空気すら感じた。どうしてこうなるのかというと、おそらく、この不安の概念を「自己」内の問題としてしか捉えていない著者の視点によるのではないかと思われる。専ら自己の内部での「不安」だけを問題にする場合には、拘束の極致の中でも自由を覚えることは可能なのだ、というところを強調したくなるだろう。だが、純粋に他人のための不安を覚える、あるいは社会や将来のために不安を覚えるという視点があったならば、また別の自由さえ議論できたのではないだろうか。
 学びなおしということなのだから、とやかく言うほうがおかしく、まずは読者に何かしら「考える」きっかけが与えられたらそれでよしとすべきだろう。ひとつの小さな入門書に様々なことを要求する必要はないのだが、専ら自己にばかり関心のあった大学生のころの私だったらこの本の内容は非常に身近に感じたことだろうが、今はどうもそうでもないということが自分で分かった、という収穫を覚えた次第なのであった。




Takapan
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