本

『わたしからはじまる』

ホンとの本

『わたしからはじまる』
入江杏
小学館
\1600+
2022.6.

 題と表紙の雰囲気に誘われて、図書館の新刊棚から手に取った。副題の「悲しみを物語るということ」にも惹かれた。まるで若松英輔さんのような言葉だと思ったら、確かに後から一部その人に触れていた。グリーフケアについての本だと思った。それは必要なことだと思うし、物語るという形にも、心が向いた。
 ところがいざ開いてみると、大変なことが分かった。この紹介の場でそれを言ってしまってよいのかどうか迷ったが、それを告げないとこの先何もご紹介できないので、伝えることにする。著者は、2000年12月30日深夜に凶行があったという、いわゆる「世田谷事件」の遺族なのだ。
 これまでもそのことで本を少し書いているが、今回は心情の吐露の点と、グリーフケアについての訴えの点で、かなり深い、また社会的にも訴えるところのある、見事な――という表現が著者には失礼かもしれないが――本となっている。それは、帯にある言葉からも窺える。鷲田清一氏は「読みながらいっしょに沈んでゆく。壊れそうになる。最後に、極微の勁(つよ)い光に射ぬかれる。」と言っている。平野啓一郎氏は「繊細な、こわれものとしての「悲しみ」を、粗略に扱わない社会のために、静かに読まれるべき一冊。」だとしている。心を深く扱う両人をして、このように言わせた文章であった。
 初めは、「スティグマ」について考えさせられることとなる。「負の烙印」という説明が入っている。キリストの疵をそのように呼ぶことがあるが、かつての奴隷の焼き印である。パウロは、イエスの焼き印を自分は身に受けているのだ、と言っている。しかしここでは、ネガティブなレッテルを周囲の者たちが当事者に貼ることをずばり指している。
 そう、被害者とその遺族や関係者は、他人から、とてつもない偏見や暴言を受けるというのである。これは、当事者になってみなければやはり分からない。私もいま、それを言っていることになるのかもしれない。ある程度想像はしているつもりだし、配慮はすべきだというのがモットーであるのだが、それでも、同じ穴の狢にしか感じられないかもしれないことを、覚悟している。
 著者が訴えていることを、ここで繰り返すのはやめておく。その言葉がまた著者や、同じような立場にある人々の心に傷をつけることになることを避けてである。本書をお読み戴きたい。第三者が、如何に酷いことを思い、言っているか。それは警察当局もそうだし、マスコミも実に拙い。事件から22年余り経ってからの本書の出版であるから、その頃はいまよりもなお悪かったことだろう。いまでこそ、報道関係者に対して、遺族側が、そっとしておいてください、という声明を出して、そこそこ聞き入れられるようにはなったが、あの頃は容赦なかった。あのスティグマは、トラウマになっている。
 こうした社会の対応が分かっていただけに、遺族側は、いくら訊かれても何も言いたくないという状態が続くし、自分は被害者の関係者だということを、絶対にそこらの他人に知られたくない、という思いで隠れようとすることが第一だったのだ、とも言う。
 しかし、その沈黙は、自らを蝕んでゆく。感情を言葉にすることの大切さ、それは恐らくいまグリーフケアを学び、その講師ともなっているが故に、見出された道なのだろう。正に当事者の立場から、経験を踏まえて、そして理論を伝える。本書の厚みというものは、その辺りに潜んでいる。
 特に、第一発見者だった、著者の母親については、読者に、そこまで明らかにしなくてもよいのに、と思われるほどに、詳しく説明している。それは、その母と、子としての自分との関係の中でも大切なものであった可能性があるが、それを通じて現代の風潮からも見て、そっと包むように、だがそこに輝くものを、私たちに垣間見せてくれる。私たちはその姿勢に、ひたすら頭を垂れなければならないと思う。
 著者は、自分の立場と視点というものを大切にし、マスコミや警察などの質問や捜査に対してきた。それは、自ら言葉にして語ることだった。語ることができるまでに、6年かかったという。どんなに慰めの言葉をかけられても、何か違うという思いしか懐けなかった著者が、自分自身の悲しみを語ることの中に、自由を知った時からである。
 だから、自分自身の心理の過程をも本書は露わにする。傷つけられても、そこから何を知り、何を以て自分が歩むことができたのか。その過程が、縦横に描かれている。その視点の変化と、考えの深み、また自らへの気づきというものが、ふんだんに現れている。本の帯の推薦の言葉の二人共が、「こわれる」という言葉を用いているのは、偶然ではない。読む方がこわれそうになるし、こうした立場にいる人はこわれそうだ、と思ってしまう。でも、それが正解なのではないだろう。悲しみのためにこわれているわけにはゆかない。こわそうとする働きをする周囲の意識を変えることができるにはどうすればよいか、著者はそこに道を拓いたのだと感じる。「悲しみの沈黙から拓かれた語りはわたしからはじまり、変容を重ね、豊かな生へ誘われて」いったのだ、というのだ。
 終盤では、メディアに対して、具体的にどのようにすべきなのか、当事者としての立場から提言する。また、それはもちろんマスコミに限らない。私たち一人ひとりが、何に気づく必要があるのか、伝えようとしている。それは「ケア」という言葉で代表されるだろう。
 人は、亡き人が心の中に生きている、というようなことを口にすることがある。まるで慰めのように聞こえることがあるかもしれない。だが、生きている者は、亡くなった人と、また新たに出会うことができる。著者はそれを「出逢い直し」と呼ぶ。そして、それは「死者とともに生きる」ことである、とも言う。
 自分の内から語ることができたら。著者はこの言葉は使わないが、一種の「救い」となるのではないか。社会の側が、つまり誰もがそれぞれに、その語りに耳を傾けるようにしなければならない。この事件に限られず、世に報じられるような悲しい事件、あるいは報じられなくても、人が死んだのではなくても、悲しいスティグマを世が、つまり私たちが、そして私が、押しているその苦しい立場の相手が、それぞれに語ることが許され、傾聴されなければならない。
 平野啓一郎氏の、別の言葉を著者は「おわりに」で引用している。それを最後にお伝えすることで、私の罪滅ぼしとなることができたら、と願っている。それは、私の信仰ともよく重なるものであった。
 ――複雑な意味の束としての自分を受け止めてくれる場所が社会に開かれているのであれば、自分がこの世界に生きていることを肯定的に捉えられる。




Takapan
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