本

『「問い」から始まる哲学入門』

ホンとの本

『「問い」から始まる哲学入門』
景山洋平
光文社新書1163
\840+
2021.10.

 哲学とは何か。これが分からないというところに、哲学の不気味さがある。まさにそれを探究するのだ、というふうにも思えるし、それを放置したままに、他の事柄にケンカをふっかけたり論じて支配したりするというヤクザな存在のようにも見えることがある。
 本書は、哲学を縄で縛ろうとするものではないが、その本質に「問い」というものを置く。そして、存在・実在・私という主題に絞り、それを問うことに終始する。
 哲学を「問う」という視野に置いて捉えることは、私はよく分かる。哲学科に入り最初の試験のときに、そのことを論じたのだ。哲学は「問い」である、と。稚拙な議論ではあったが、方向性が間違っていたとは思えない。何かのテーゼを導いて、それを真理だと額に入れて飾るようなことは、哲学には似合わない。それでいいのか、その根拠は何か、と常に目を光らせておく。このようにして問い続けることがどうしても必要だし、それが哲学の営みだと考えたのである。さらに、いまこのように哲学を問いだと述べているそのことそのものも、問われなければならない対象であるという厄介な問題を含んでいるため、メタレベルのものも含めて、益々この問いの旅には終わりがない。という内容もまた、問われねばならないから、果たして「問う」ということでよいのかどうかも、分からなくなってくる。
 だがそれでは始まらないし、何も足跡すら残せない。本書は、この「問い」に先立って、「問うものとしての人間」について考えることから始まる。なにも哲学史を説明するというつもりもなく、ソクラテスからハイデガーに直結するスタートを切るのだが、哲学者はその後ニーチェだのアリストテレスだの、カントだのと必要に応じて登場してもらうこととなり、哲学史の流れにおける問いの進展というような関心で編まれているのではないことが分かる。純粋に、人間の思考にコミットしようとしているのであり、「問い」の実践と、まさにその「問い」を問うことへの、終わりなき旅の記録をここに載せようとしているかのようでもある。
 少しばかり考えて、総計に結論を下して分かったような気になる。あるいは、それはどうしようもないぜと判断を中止してとりあえず見えるところ、感じられるところをあれこれ言葉にしてそれでよいとする。こうした態度には、本書は賛同しない。存在については「ある」という言い方でしばらく問い続けるのであるが、それは、「ある」ことは名詞ではなく、何らかの営みだということを直観しているからだろうか。ただ、それは「人間」の立場からの見解だというところが、この場合の哲学のひとつの背景として前提されている殊になるのだろうか。
 神という背景からも、そこからどうなるかは折に触れ説かれる。神を設定しての世界解釈というのも、哲学史の中では重要な項目である。著者もそれを認めている。只、神から始まる体形を構築してしまうと、独断的な世界像で終わるかもしれず、あくまでも人間の眼差しから「問い」を立てることを諦めることがない。この徹底した立場を守りながら書かれていることが、読者を安心させる。この一冊には、ブレがないと思うのである。
 まず問われた「ある」ということだが、これと「実在」を分けているところが、本書の特色であるかもしれない。現実にあるのかどうか。近年では、「世界」なるものは存在しないと言った人気の哲学者の本もあった。その意味ももちろん分かりやすくここに明らかにしている。そして実在となると、無視できないのが、時間と空間という問題である。その中にあってこその実在であるからだ。
 だから、たとえば悪魔は実在するか、という神学的な問題を考える場合がキリスト教世界にはあり、自由主義的にはむしろその実在を否定するほうがスッキリと説明すると見られるかもしれないが、悪魔は時間空間の中に存在するかどうかを否定したとしても、そのことで「ある」という存在自体を否定することはできないことは、思い込んではならないこととなるであろう。
 最後には「私」が問われる。その問う主体が「私」であることに、もちろんジレンマがある。それは存在的にのみならず、そのように問うための「言語」の問題も関わってくることになる。しかし、「私」として意識されるこの「私」は、「他者」との関係というものが実に重要なものとなることに、著者は議論を深める。「私」が誕生した、それはすでに「他者」のいる世界に、である。この誕生という始まりは、死という終わりへと向かう第一歩となるのであるが、肉体が原子に還元されて存在し続けたときに「私」の意識が消滅するのかどうか、それとも、「他者」により「私」は残ることができるのか。
 いくら問い続けても、終わりはないし、一意的な解決ができるものではない。恐らく信仰は、その終わりなき問いにひとまずの休息地を与えることであり、人がそこに立ち、落ち着いて生きていくことができるような場所を提供しているということなのではないか、ともだんだん思えてくる。
 しかし、このなにげない日常の中に、何らかのきっかけにより、問うことを始めた人がいるとすれば、それは決して無駄なことではないだろう。私とは何者であって、人とどのように向き合っていくのか、また同じ方向を向いて歩いていくのか、そして行き着く先の死というものが、ただの絶望ではなく、生きることの希望であるようにすら捉えられるようにするにはどうすればよいのか、考えるひとときの意義は大きい。
 それは、哲学が「問う」ということにより、「生きる」ことと結びつくからである。抽象的な議論で世界の謎を解いたかのようにして、我が身を誇るようなことを、哲学はやってきたのではない。また、そのようなことで優越感を懐く者は、哲学とは無縁の者である。「ある」ことを問うことは、そこから始まる生き方に、必ずよい影響を与えるはずである。豊かな人生を支えるものになりうるはずである。
 多くの人に読まれてほしいと思った。「問い」の大切さに、多くの人が気づいてほしいと思った。強くお薦めしたい。




Takapan
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