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『空気の発見』

ホンとの本

『空気の発見』
三宅泰雄
角川ソフィア文庫
\280+
1962.7.

 価格は2006年発売の時のもの。薄手だが、読み応えがある。理科を子どもたちに教えるときには、なんと魅力的な内容なのだろう。そもそも本書は、子どもたちのために書かれた本である。科学に関心をもってもらいたい。とくに、人間がどのように科学に立ち向かってきたかについての歴史、つまり科学史というものに気づいてほしいという思いから、科学教育を愛する気持ちで生み出したものであるようだ。もちろん科学は、自然を観察したり愛でたりすることを重んじなければなるまい。だが、科学を教育するというのは、ただ関心をもつというのではなく、人間の営みとしての科学を理解することであるという著者の主張は、確かにその通りだと肯かざるを得ない。
 小学生が読むように書かれたのではないかと思われる。ふりがなが多くの漢字に振られているからだ。が、いまとなればこれは内容的に中学生あたりがちょうどよいだろう。
 気づくのは、中学の理科の教科書に載っている、様々な実験の多くがここに登場しているということだ。やはり化学の分野であろうが、この実験から何が分かるかという問いは、しばしば計算問題を含み、中学生を悩ませるものであるのだが、その多くが、ここに挙げられた古典的な歴史とそこでの発見などに通じていることが、驚くほどよく分かる。
 教科書、そして理科の入試制度というのが、科学史を踏まえて編まれていたということなのだ。
 私たち現代人の目から見れば、質量保存の法則など、あたりまえだという気持ちで受け止めることができるであろうが、当初人々は、実験しても軽くなったり重くなったりする現象を目撃して、そんな保存則など思いつかなかったのである。そればかり、生命ですら、ボウフラはどこからか「湧く」ものであり、細菌も無からすら生まれるものであったはずなのだ。一つひとつの常識の打破に、実験もさることながら、それを生み出す推理や知恵というものが大いに関係していた。その推理があったからこそ、対照実験をするつもりになったのだ。
 そもそも目に見えないもの、そこに何かが「ある」とするのはどうしてなのか。説明は、哲学的な話題と歴史にも踏み込む。空気にも重さがあるということなどは、私たちは基本的に感じてなどいないはずだ。だが、気圧といった問題もさることながら、大気分の厚さを伴って私たちの頭上にかかってくる重量といったら、半端ないものである。
 いやいや、そもそもいったい空気とは何か。これが解明するためにすら、長い歴史が必要だったのである。誰がどのような実験をしたのか。推測したのか。フロギストンという、悪名高い誤った説がしばらく信じられていたが、これまたある実験からそれが否定されるに至った。見えないけれどもそこにはある、だがそれは簡単には説明できない。こうした時代が長く続く。そこで酸素よりも先に二酸化炭素が見出されるというのは、空気に含まれる割合からすれば、ずいぶんと意外なことである。次が窒素、それが窒息するということで、毒気のある気体だということで見出されたこと、酸素はその後であることなど、化学の歴史について意外な気もするところを、実に分かりやすく語ってくれる。
 いつも私が言うことだが、子ども向けに理屈を伝わるように書くというのは非常に難しい。これができる人は、物事が本当に分かっている人だろうし、誰に向けても分かりやすい説明の仕方ができる人であるだろう。難しい言葉でひとに分かりにくいようにしか説明できない人は、本人自身、そのことがよく分かっていないのである。本書はもちろん前者にあたる。小中学生に分かる説明ができる人はすばらしいし、大人もまた、このような分かりやすい説明を読んで、難しいのを読んで分かった気にさせられている嘘から離れ、ほんとうに合点がいくという形で、ものの道理を知っていくということが、望ましいことなのだというふうに私は常々考えている。
 原子や化合物といった、中学校の理科の教科書に載っている言葉が用いられ始めた背景などがふんだんに、しかも一つひとつは短いエピソードで読書が少しばかり苦手でも苦にならない分量で書かれているから、大人にも心地よいし、中学生にもぜひこれは読んでもらいたいと思っている。
 後半になると、希ガスからオゾンの正体、有機物から状態の変化など、全く中学生向けの内容がずらりと並んでいる。実は第一部の終わりあたりから、原子から気体反応の法則などそうした気配はあったし、そこにはアヴォガドロの分子説も紹介されていた。この辺り、中学の理科の背景として心得ておきたいのは確かである。
 最後は大気圏へと目が向き、読み手の心も解放されていく。狭い範囲の実験室の話をしていたわけではないのだ。宇宙への眼差しをも、確かに知るためには実験室の出来事が必要だった。人は諦めずに挑んだ。科学的には成功した話ばかりが並んでいるが、その成功者とて、幸福であったかどうかは分からない。真実を追究したばかりに断頭台へ消えて行った人もいる。裁判で命を落とした人もいる。そのとき、キリスト教会が、科学者を生け贄にしたことは、痛みをもっと私も語らねばならないだろう。
 先ほど、成功した話しかない、と言った。だか誤解をなさらぬように願いたい。目立った成果を遺したのはごく一部の人たちであるが、その背後には無数の、誠実な研究者や科学者がいたこと、まただからこそ科学が発展してきたことにも著者は触れている。誰しもが、真摯に世界に立ち向かうならば、それぞれが大いに祝福されるべき仕事をしたことになるというのである。誠実のこもった石をひとつ置くようになって欲しい。その願いは、本当だろうと思う。だから私たちも、安心して、今日を生きることができるからだ。一つの石を手にしていると考えている故に。




Takapan
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