本

『新約聖書の女性観』

ホンとの本

『新約聖書の女性観』
荒井献
岩波書店
\2500+
1988.10.

 岩波セミナーブックスの一冊。市民セミナーの録音に手を加えてまとめあげたものだという。話し言葉なので敬体をとり、人によっては読みづらいかもしれないが、私は丁寧に聞こえて気持ちよく読ませて戴いた。
 女性観と聞くと、すぐにフェミニストという言葉が思い浮かぶ。だが、どうかするとやたらと過激に反動的になるという場合もあるその運動にブレーキをかけ、できるだけ公平に、しかし女性の視点から教えられているのだと謙虚に認めつつ、新約聖書が女性をどのように描いているか、扱っているか、またその背後にはどういう事情があるのか、という点について冷静に分析をしていく。著者は男性であるから、それでもどこか男性本位の視点や考え方がとりまとめている面があるかもしれない。著者もまた、そうしたことに用心している。しかしそれ以上はもはや自分ではどうしようもないのだから、著者がよく知るトマスの福音書などからもふんだんに論拠を探し、それぞれの文書における女性への視点というものを読み解いていく。
 その方法についてだけで30頁ほどを使うのだから、下準備もしっかりしている。ここが曖昧になっていては、以後の論究について誤解をされるかもしれない。また妥当性についても疑問が残るかもしれない。そうした慎重な姿勢が、この序論を長くさせている。
 イエスそのものと女性との関わりについて触れた後、具体的に諸文書をゆっくりと調べていく。聖書という名でひとくくりできるはずがないのである。せめて、同著者というような意味合いでまとめつつ、その女性の扱いを検証していくのである。すると、マルコによる福音書からマタイ、ルカと見ていくにつれ、女性観についてはかなり立場や考え方が違うことが浮き彫りになる。これら共観福音書については、対照表を掲げて、いっそう明確に、何がどう違うのかという特徴を読者に際立たせようとしており、たいへん分かりやすい。ここから明確になる特徴は、一般的にマタイとルカが共通の文書を資料にして、などという程度の理解で満足していては見えない視点と風景である。もちろん、ユダヤ人対象か異邦人対象化などという捉え方もあるので、女性観についても同じわけではないだろう、くらいの見当はつくかもしれないが、それは細かな記事の中で女性がどう登場するかしないか、そこから読み砕かれていくべきことであったのだ。
 そして、ヨハネによる福音書が如何に女性に篤い文書であるかが浮かび上がってくるという。そしてそれは、ヨハネの集団が他の福音書の集団とは背景を異としている点に由来するのではないかと結論を下す。
 このようにして、パウロ書簡、パウロの名により書かれた書簡といった形で一つひとつ女性への視点を明らかにしていく。そして、トマスによる福音書が独自に扱われる。
 このことのためにも、実は伏線がしっかり引かれている。それは、新約聖書を現行の27文書に制限してよいと誰が決めたのか、という歴史の指摘である。これこそが神の言葉であり霊感によりそれが保証された、という信仰箇条をもつグループもある。しかし、考えてみればこの27という決定機構自体が神の権威によってされたという前提がそこには必要なはずである。それどころか、カトリックの時代に27が決められ、宗教改革を始めた中心人物は悉く27のうちに外そうとしたものがいくつかあり、その後を継いだプロテスタントが27こそ神の言葉であると強く主張してやまない傾向が強いという皮肉めいた事態があるという。こうした事情から、必ずしもこれら27文書だけがすべてではないという前提を掲げて、聖書時代の女性観と各文書の立場や特徴を暴露していくのである。
 その点を含めて、ヨハネ伝の姦淫の女の物語について、正典問題と絡ませつつ描いた小論と、マグダラのマリアとは誰かという点について、各文書のもつ女性観と当時の常識などとを対照しつつ、根拠のある視点を提案する小論とが最後に附録のように添えられている。
 読み応えのある本だった。私はフェミニストだとは言えないが、かねてから聖書の女性の描かれ方については関心をもってきた。しかし、そんな生温い動機だけでは読み解けないことがよく分かった。ルカは女性を大事にする、などという説教もよく聞くが、ルカが相手にしている女性は特殊な立場、あるいは富裕層の女性であるという指摘は、聖書から拾えばなるほどそのように見える。
 このように、学ぶべきことが多い本であるのだが、私はここでは描くことのできなかった生活の視点からも幾つか疑問が実はある。それは、イエス一行の旅の衣食住である。そもそも食事はどのようにとっていたのか。まさか常にパンをちぎって籠に余らせるほどにしていた、などと言うことはできまい。誰が世話をしてどんなふうに食事をしていたのだろうか。その費用は誰が出していたのだろうか。衣服は洗濯をしていたのか。宿をとっていたのか。しかし弟子は12人だけでもなかったはずで、どう寝泊まりしていたのだろうか。その費用は果たして。こんなふうに、臨場感を以て想像するだけでも、いったいどのように生活をしていたのか、私にはまるで見えてこない。もちろん当時の生活の常識というものもある。しかしそれにしても、弟子たちを従えての旅である。分からないと言えば分からない。女性も従っていたようなふしがあるが、その家族はどうその事態を認めていたのだろうか。一括りにできずいろいろなケースがあったかもしれない。どんなふうな人々のケースが実際にあったのだろうか。
 こうした好奇の疑問であるが、ここまでくると、たんに女性観とは言っていられなくなるだろう。しかし、生活という場においてこそ、女性がメインになるものだとするならば、女性観と生活への疑問とは、連関するものであると言ってよいのではないだろうか。マルタとマリアのエピソードだけでそのすべてが判明するわけではないであろう。もちろん、本書ではこのマルタとマリアの話の意義も踏み込んであり、興味深く読ませて戴いた。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります