本

『安心のファシズム』

ホンとの本

『安心のファシズム』
斎藤貴男
岩波新書897
\735
2004.7

 サブタイトルは、「支配されたがる人びと」と付せられている。
 よくぞ過激にここまで書いたものだと驚く。なにも、ゴルゴ13の作者と同じ名前だからといって、冷酷無比にターゲットを倒すという訳ではないだろうが、日本をある方向へ引っ張って行こうとする動きについて、的確に指摘している。
 問題は、その動きというものが、必ずしも権力者、独裁者の手による強制的なものであるとは限らない、ということなのだ。それがそのサブタイトルに現れている。大衆もまた、長い物に巻かれることを快く思い、その流れに簡単に乗っかっていく性質があるのだということを明確にし、事実今そうなっているではないか、と叫ぶ。
 はたして、その叫びは誰かの心にブレーキをかけることができるだろうか。かけてほしいと願う。
 長い間温めていたこのテーマについて、著者が猛然と筆をふるい始めたのは、イラク人質事件の被害者へのパッシングであったという。それでこの本もまた、そこからスタートしている。これに対する分析は、もちろん素人である私などとは格段に違う資料と熟考を踏まえたものであるが、私がサイトで考察していることと、よく響き合う内容をもっている。だから私には、一行一行がよく理解されて読み進むことができた。
 日常のなにげない視野の中に、実は恐ろしいものが隠されている。そういうことを暴く著者は、格別論理的に構築されたわけではない仕方で、次々と日常の危険性を指摘する。自動改札の風景から、監視カメラや携帯電話などには、私たちの安心の心理を巧みに利用する、ファシズムの悪魔が潜んでいた。
 現実の政治に関わる人々の中に、どんな巧みでそれを助長する発言が潜んでいるかを、洗い出して整理していることも、この本の特長である。その時期問題になって騒がれたとしても、その場だけで通り過ぎてしまう、失言の数々。それを集めて並べていけば、ある方向へ日本が傾いていることを、歴然と証明する。この働きは、ありふれたようで、あまりなされていないことではないか。
 かつてイタリアで、あるいはドイツで猛威を奮ったファシズムの嵐。あれとは違う、と安心しきっていることこそ怖い。歴史はまったく同じ姿では再び現れない。定義はしにくいファシズムであるが、今どのような形で襲ってこようとしているのか。フロムやエーコの分析と比較しながら、著者は日本の姿に焦点を当てつつ、それを明らかにする。
 この本を黙殺する、あるいはこの本を読んでも何にも感じない、そういう社会メンバーこそ、すでにファシズムに体よく利用されており、しかも自らそのファシズムに協力加担している、加害者になっている存在なのだ。このこと分かっていながら、この著者と同じようにひっそりと叫び続けるしかないだけに、私は自分の無力さが悲しい。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります