本

『防災の決め手「災害エスノグラフィー」』

ホンとの本

『防災の決め手「災害エスノグラフィー」』
林春男・重川希志依・田中聡
NHK出版
\1575
2009.12

 著者として、実はNHKも記されている。「阪神・淡路大震災 秘められた決断」制作班だそうである。テレビ番組作成のために重ねられた取材を、本という形にし、なおかつ災害についての提案や方針を考えていこうとするものである。
 1995年1月17日、朝5時46分のことは、私もまた忘れることができない。京都でさえ、あの縦に揺られる恐怖を味わった。神戸近郊ではどうだっただろうか。未明のラジオからでさえ、神戸が壊滅したことが懸念された。事実、そうだったと言える。
 この本は、その現場にいた人の声を取材したものである。と、説明すればそれだけのもののように見えるが、これを、私たちには一般に聞き慣れない「エスノグラフィー」という手法の紹介と共に、この取材でそれが用いられたことを知る。民族誌とも訳される語である。もともと異文化の記録のために開発された手法であったが、それを被災者に適用した。神戸市の職員が、災害の現場を否応なく体験している。それを聞き出すことは、将来の別の災害の時に役立たないはずがない。ただし、そこにはいろいろな問題があって、職員の声という記録は、30年間公開しないという原則で集められたものであるという。それを一部であるにしても、今回公表するということになる。許可を得るだけでも一苦労であったのだという。
 挿絵が各章のはじめにあるものの、全般的に地味なつくりの本である。しかし、そこに詰まった内容を思うと、ちゃらちゃらした本はやはり似合わないことが分かる。そこには、人の尊厳をも容易に打ち破り棄て去るかのような、生々しい記録が続いているのだ。
 消防員たちは、当日午前3時台の火事に対して任務を果たしている。ようやく朝5時に横になれたかと思うと、この地震である。しかもそこから、不眠不休の活動が始まることとなる。実に過酷であるが、そこにまた、心理的な問題も絡んできていることが、この調査で明らかになっていく。
 究極の選択が、いくらでも出てくるのである。消防の立場では、火災の鎮火が使命である。が、その作業の途中に、救助を待つ人がいたとする。いや、いたのだ。確かに、ここで公務員たちは強烈なジレンマに悩んだのである。消防のために目の前の人を置いていくのか、目の前の人を助けることで消化の仕事を全うできないのでよいのか、容易には決定し難い状況が、この震災の中ではいくらでも起こっていたのである。
 また、数千の遺体が突然現れるのである。遺体の火葬についてもずいぶん問題があったはずである。被災者たちは、こうした切実な問題に出会い、それを解決していくことをしてもなお、そのことが一般に知られることは、これまで殆どなかったのである。だが当たり前のことながら、細々とした生活上の問題もまた、たくさん発生していたことだろう。
 それを実際どうしたのか。それをどう感じたのか。聞き取り調査がなければならなかった。そして、当面公表はしないというはずであったが、NHKがそれを取材し始めた、というわけである。
 実際、救助は、隊員が呼びかけることによって、一般市民の手によっても広く行われているようだ。専門的な消火作業は、やはり必要なのだ。とはいえ、この原則の通りにすべてが動くとは限らないことも含み置かなければならない。即座に選択をしていかなければならな、過酷な状況である。
 保険関係の動きもそうだ。数十万件を数日でこなさなければならないなど、神業に等しいことをやり始めなければならない。想像を絶する状態の中で、やらなければならないことを、神戸の公務員たちはやり通した。どうかすると、公務員たちは冷たくて、ボランティアたちは清々しい、といったステレオタイプがまかり通ることについても、そんなはずはない、というのが現実を取材した結果分かったことである。
 地震で火事が起こり、人が死にました。これは事象として嘘を言ってはいないだろう。だが、その一つ一つにどうした問題があり、現場で何をする必要があったのか、そんなことを実際の行動レベルから感じ取らなければならない。この聞き取りの手法についての解説も応用の可能性を秘めたものとして、巻末部分に載せられている。他方、防災として何をする必要があり、何をしてはならないか、そうしたことも当然この本は告げ知らせている。
 こうした限界状況においては、通常想定しない問題が起こり、その解決が望まれることがある。消火活動と人命救助との間でどちらを優先させるべきかためらった消防隊員を、私たちは責めることなどできない。私たちも、その時になってみなければ、どうするか分からないはずである。また、平穏時に決めた原則に従うだけがすべてというものでもあるまい。
 語り尽くせないものがある、あの震災。だが、何かを伝えていくためには、何を伝えるべきか、個人で、あるいは社会で、検討していかなければならないのである。
 震災とは何であったのか。ドラマを見たお涙が止まったら、ぜひこちらへ関心を向けて戴きたい。実際に何が起こっていたのか。生活のレベルの中で、何が起こっており、人々を何をすることが求められていたのか、そんな意識ででも、私たちは考えてよいだろう。それがまた、災害も他人事としか通常感じていない私たちは、戸惑うのである。
 問わず語りとして語られたこの証言らは、意図に基づく取材ではないため、聞き甲斐があるといわざるをえない。これが、事実、震災の中で起きていたことなのである。




Takapan
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