本

『エシックス・センス』

ホンとの本

『エシックス・センス』
新名隆志・林大悟編
ナカニシヤ出版
\2400+
2013.4.

 ナカニシヤ出版と聞くだけで、懐かしい風が吹いてくる。いまは京都を離れていても、京都の書店を知る方には、きっと同じような風が吹いてくることだろう。学術書として、あるいは大学のテキストとして、必ずしも売れ筋ではないが、質のよい研究や論文を発行してくれる。
 今回は、企画ものでもあり、多くの執筆者のつながりから生まれた、学生たちへのメッセージともなりうるような作品である。「倫理学の目を開け」というサブタイトルも、若い探求者へ挑戦的な姿勢を示していると言えるだろうか。但し、この執筆者たちというのが、一人を除いていずれも九州大学の博士課程の関係者である。いまは各地で活躍してはいるが、ひとつのルーツでつながっている面々が、意欲的に書き下ろしたものであり、意気込みを感じるものである。
 開くと、「まえがき」の最初から、本書の題の種明かしがされている。ちょっと早すぎる展開であるが、「シックス・センス」と呼ばれる「第六感」をもじっている。倫理学を「学」とするならば、それを感覚も感覚、解明されざるような直感のようなものに重ねるというのは、どういうことだろう。だが、倫理学とは、学の中でも微妙な存在感をもつ。文化や歴史の背景抜きには考えられないはずなのに、普遍的なものを目指す気構えに満ちている。個人の価値観により様々であるような事柄を、公的な、あるいはすべての人の判断の中に収まらせようともがく。求めても求めても得られないもどかしさがあると共に、瞬時にして現場で活用しなければならない逼迫感ももっている。
 そして、きっと誰しもが考えておかなければならない筋道というものが、そこにはある。だが、現実には、教育の現場でこれがなされていない。それが何をもたらすか。思い込みによる誹謗中傷や、自分がすべて真理であるはずだという確信犯に基づく、「論破」の嵐。ひとの心を思いやることができないことから渦巻く、暴力的な言論がネット上を暴走する。それを言論の自由だ、などと、これまた倫理のない錯覚で自己弁護しながら。
 結局は、ひとつのメタ視点が欠落しているのだろう。倫理学は、その機会を与えてくれるひとつの有効な手段である。自分はどうか、その問いを自ら立てることができるだけで、少しは違ってくるのだ。さらに、いろいろな「自分」のあり方を知ることによって、より「共にあること」のための対話や議論への道が拓かれていく。  本書は、身近な事例から入り込むように、互いに話をつけて執筆されているという。それでよい。抽象的な議論ができるためには、かなりの訓練が必要になる。具体的な事例から、問題の本質へと導かれるような道筋を経験することは、学生にとって大きな意味をもつことであるに違いない。
 まずは、差別という問題。本書発行より後だが、「マイクロアグレッション」という概念が問われるようになっている。自分は差別などしない、と豪語する者が、どれほどきつい差別をしているか、に気づかせてくれるかという問いかけである。もしいま本書が改めて続編をつくるならば、この「差別」の項目に、これが加えられることだろう。
 続いて、事実と倫理の問題。人の死という題材から、「である」ことと「べき」との間の架け橋を考える。これを、異星人の思考実験という面白い角度で、分かりやすく導いてくれている。また、法への依存とそこからの自由について、家族のあり方を問う議論が展開され、さらに感情をどう尊重するかの話も続く。感情について否定的であるならば、そもそもエ「シックス・センス」という題は付けなかっただろうが、被害者感情と正義の問題は、確かに私たちの「痛い」ところを突いてくる。
 なぜ働くのか。労働とは何か、過労問題が消えないこの社会にあって、改めて問うことは、極端な議論を抑えるためにも役立つだろうか。そして、民主主義を問うところがまたよい。プラトンが愚衆政治だと蹴散らしたものが、いまの世の中では絶対的なものとして君臨している。しかし、ここで問われているのは、そのようなことではない。社会生活のために、もっと実用的な部門で考えようとしているので、いわば中学生の「公民」の学習の延長として、一考するべきものであろう。しかしそれが大きく展開すると、国家の問題へとつながる。そもそも死刑は国家の暴力ではないのか。「国家」とは何か、を問うことこそないが、ここでは「人権」とは何かを問う姿勢を紹介する。暴力のコントロール権として、人権を捉え直す試みである。それだけというわけにはゆかないだろうが、私たちが見落としていたような大切な視点を提供してくれているような気がする。
 最後の二つは、個人的に大いに関心のあることだった。未来の人々に対する責任があるのかどうか、という環境問題と資源問題に関わるものだった。そもそもいま遠い世界の出来事に対する「責任」というものがあるのかどうか、という問いかけから入り、過去と未来の人々との関係へと目を移すのである。過去のキリスト教が犯してきた暴力や過ちに無関心な、いまのキリスト教世界。未来の子どもたちなどどうなってもよい、と刹那主義で資源を浪費し環境を破壊する私たちのあり方は、本当に大切だと考えているのだろうか。SDGsも、ビジネスチャンスくらいにしか扱われず、深刻に考える人を小馬鹿にするようなところに、いったい倫理というものは存在するのか、疑問である。
 もう一つは、宗教。これで結ばれるのだが、オウム真理教問題が尾を引いている中で、宗教離れ、あるいは宗教に対する誤解がどう渦巻いているのかを明らかにしていく。とくに政教分離の説明は教えられた。「政」は政治ではなく国家または政府のことであり、「教」は宗教ではなく教団のことである、という鮮やかな定義は、多くの誤解を解くベースになるのではないかと思う。宗教は「怖い」という、なんとなくの空気を、取り払うためにも役立つことだろう。宗教を批判しながら、占いに興じたり、何かの前に拝んだり、自分の中の宗教に対する欺瞞がはびこっているひとつの理由は、宗教というものが教育の中で全く考えられていないことである。宗教とは何か、これを教育の中で考える機会が全くないということが、オウム真理教の事件を生んだこと、また今もその延長にあるような教団がはびこっていることについて、真摯な反省や問いかけがなされていないこと、これをもっと大きな問いとして、声として、投げかけなければならないのではないだろうか。
 ただ高いところから教え込むのではなくて、読者が、これは本当に大変なことだ、と自ら考え始めるような本を、私は評価する。本書は、間違いなくその評価されるべき本のひとつであると考える。考えて戴きたい。




Takapan
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