本

『遠慮深いうたた寝』

ホンとの本

『遠慮深いうたた寝』
小川洋子
河出書房新社
\1550+
2021.11.

 9年ぶりのエッセイ集だという。様々な場所で書いてきたものを集めているが、八分の三ほどは、神戸新聞の連載である。
 しかしエッセイであるし、どこからどう読んでも構わないものと思われる。話題もその都度様々であるし、読者の側でも、出会う楽しみを感じながら、頁をめくっていくとよいだろうと思う。
 感じたのは、けっこう時間がかかるということ。もっと気楽に、すいすいと読めるものかと思っていたが、心にささくれ立つように、読むスピードにブレーキをかけてくるのだ。文章が読みにくいということはない。むしろ読みやすい。そうだそうだ、などと思いつつ、わくわくして読むことが多い。時に、そこまでするか、と呆れるような気持ちも沸き起こり、読書の醍醐味を感じることもある。
 阪神ファンであることはもう読者の前提である。それにまつわるものもいくつもある。『博士の愛した数式』の頃は数学に関する話題も多かったが、ここにはそれほどでもない。あれもあるこれもあるというふうに紹介しても埒があかないので、注目した一つだけを取り上げてみようと思う。非常に偏った紹介である。
 それは「読者の働きがあってこそ」というタイトルの付いた、神戸新聞のものである。
 O・ヘンリーの『最後のひと葉』は、多くの人がその話を知っていると答えるもののひとつだ。筆者ももちろんそう思っていた。だが、仕事のために――毎週一冊ずつ本を語っているあの番組であろうと思われる――、久しぶりに読み返して驚かされたのだという。自分の思っていた筋道が全く違うということはありえないが、シチュエーションが全く違うのだという。その余りの思い込みに自ら呆れているようなところも見受けられたが、もはや文学としては別作品というほどのものを、自分は思い描いていたことが判明したのである。筆者の言葉を挙げるならば、この物語は、「命をつないでゆくための犠牲と、芸術の意味を問いかける、深い物語だった」のである。
 また、自分の知っていたはずの粗筋から外れたところに位置する、二人の女性の結びつきに、いま感動的に出会うのであるが、昔読んだときにはそれに全く気づかなかったのだとも告白している。
 これは、短い小説である。ほんの数頁なのだという。だが、「一度読んだだけでは見えてこない世界が隠れている」と気づかされる。それは、活字の間からこぼれ落ちてしまうものであるとも述べている。「安易に分かったつもりになるのは、読み手の傲慢さに他ならない」というのが、そこから学んだことなのであった。
 筆者は事ある毎に、この本は何度も読むというような書き方がしてあったが、そのように「再読」ということに、大きな意味を改めて見出したのだという。これは、再読を殆どしない私には痛い言葉であった。
 漱石の作品は、それを読む年代によって、違う作品のようにすら読めるものだとよく言われる。だが、それは何も漱石に限らない。筆者が考えるには、小説そのものは、ずっと書かれた時のままの形でそこにあり続けるが、「読み手の成長や社会の変化によって、見せる姿が違ってくる」のだ。「その時必要とされているものを、差し出してくれる」のである。
 ここから筆者は、「小説は、作家一人の力で書かれるのではなく、読者の働きがあって初めて、成立できるのだ」と結論する。
 これは、作家としての筆者は、自分の作品も、自分がいなくなった未来において、誰かに読んでもらって、その人の心にとりよい出会いを果たしたらステキだろうという思いを懐くようになり、そう想像することは、自分に安らぎを与えてくれるものとなったというようなことで結んでいる。
 本のウリとも言うべき内容をずっぽり紹介することは、著作権の問題のみならず、販売の妨害ともなりうることと理解し、謹んでいる私ではあるが、ひとつのエッセイを凡そ全部紹介することにしたのは、ここに筆者の心がたっぷりと詰まっているように思えたからだ。もちろんそれは、私の心にも強く響いたからである。そもそも書き手としての思いが、この本のエッセイにはたくさんこめられており、幾度もそうしたことが書かれていることは承知しているが、中でもこの文章は、印象的であった。
 このエッセイの粗筋そのものは、もしかすると特別に真新しいことではないのかもしれない。先ほどの漱石の例にもあるように、多くの人が指摘していることだとも言えるだろう。だが、そのことを知っているというのではなく、自ら体験し、自分の心の奥底に触れる問題としてしみじみと感じ入り、しかもそれを絶妙なタッチで描くというところは、やはりこの筆者ならではであると断言する。言葉の料理人の手にかかると、ありふれたコンセプトや誰もが見るような景色を扱ったというだけの素材であったとしても、調味料だか調理法だか、あるいは包丁の切れ味だか知れないが、口の中で味が拡がり、腹の底まで落とし込まれていき、心の栄養として申し分のないものを与えてくれる料理となるのである。
 一冊、どこをとっても、そのように美味しい本なのであった。




Takapan
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