本

『絵本の読み聞かせ方』

ホンとの本

『絵本の読み聞かせ方』
景山聖子
廣済堂出版
\1260
2013.4.

 小学校で、絵本の読み聞かせのボランティアを募るということがある。何を隠そう、私はかつてそれをやったことがあるのだ。
 Jr.2が卒業する年の一年間だけだった。そして、そのときJr.3も生まれていた。ひさぱんは、朝から勤務である。昼は父子家庭だったのだが、ということはつまり、私はJr.3を連れて、小学校に月一度通うのである。
 教室で読み聞かせをするときにも、Jr.3はいる。Jr.3は私から離れない。私の膝の上に座っている。そして、私は横に絵本を構えて、生徒に読み聞かせる。
 年度初めに、その研修があった。メンバーの顔合わせであると共に、読み聞かせ一般についてのレクチャーがあるというのである。当然と言ってよいのかもしれないが、男性は私一人だった。朝自由に動ける男性は限られているし、たとえ動けても、子どもたちの中に、絵本を読み聞かせるなどということに関心をもつ男性は、探しても見つからないと言えるようなものだった。
 このレクチャーのとき、私は、読み聞かせのプロと言われる講師から、「ではひとつ読んでみて」と振られた。男一人である私が目立ったのかもしれないし、これは間違いないのだが、女性の誰かに当てて恥をかかせるというやり方が、女性グループをこれから率いるために相応しくなかったはずである。男なら、読み聞かせのやり方の悪い実例として使われても、まあ仕方がないという一般的了解と、女性のグループ心理とから、差し支えないだろうと判断されたらしい。
 一冊の、犬の絵本が渡された。初見である。下読みというものを、読み聞かせは当然するべきである。話自体も知らないし、どう展開するか、どの台詞を誰が言うのか、また、どんなキャラクターであるのか、まるで知らない。これだけでも、まあ失敗例を作るためにもってこいの環境であった。だが、絵本について、私は一定の理解があった。絵本の持ち方も知っているし、演技なんて、授業でも普通にやっていることだ。キャラクターの把握にやや戸惑いながらも、少し読んでいけばだいたい分かってくるので、あまり感情移入せず、だがメリハリはつけて、子どもたちに読み聞かせるように自然に読んでいった。
 期待を裏切られたのか、その講師は、最後まで私の読みに聞き入ってしまった。物語の世界に、大人たちをも巻き込んでその絵本が閉じられた。決して、失敗例にはならなかったのである。
 それでも、何か指摘しなければという義務感だからか、その講師は私に、気になることが一つある、と言った。それは、絵本だけを見て読むのでなく、子どもの側に視線を送って読んでいた私を、それではいけない、と言ったのだった。子どもに視線を向けてはいけない、というのだ。子どもが、気にするから、子どものほうを決して見ないで、絵本だけ見ているのがよい、と言うのだった。
 私は別にケンカをするつもりはなかったから、それには全面的に従えない、という姿勢だけ示しても、別に論議を起こす気持ちは持たなかった。子どもに読み聞かせをしているのだ。子どもの反応を見ながら、また、子どもに向けて、君に語りかけているのだよ、というメッセージを送らないで、読み手が自分の世界に浸って読み進んでいって、いいはずがないではないか。授業で、黒板ばかり見て喋っている先生がいたら、生徒はどう思うだろうか。
 ただ、果たしてどちらが正論であるのか、私は別に定めるつもりはなかった。子どものほうを見たくない人は、その人の持ち味なのだろうし、それを咎めようとも思わなかった。私は、一年間、子どもの顔を見ながら話し続けた。
 この問題について、私は真偽を問うような真似はずっとしていなかったのだが、今回、ふと借りて読んだこの本で、ひとつすっきりした、そのことが言いたかったのだ。
 テレビ関係での解説もこなし、その後絵本の読み聞かせに専念して活動を続けている著者の本である。前半は、母親という立場から、子どもとの関係を絵本でつくるというひとつの視点から、絵本とどうつきあっていくのか、子育ての一部として、親子どちらの心理をも多分に分析しながら、分かりやすく説き明かしてくれていた。もちろん、父親という立場もあることは著者は分かっているが、そこを断りつつ、ここでは読者のイメージとして母親という立場を掲げたのだという説明もちゃんとやっていた。この態度には私も共感できる。相手の具体的な像をそこに立てて語るのが、絵本の読み聞かせの真髄だからだ。だから、模擬読み聞かせのあの時にも、ターゲットはどのくらいか、という確認を私は初めに尋ねた。小学校低学年くらいだということでその絵本を読み始めたのだが、さらに言えば、二年生なら二年生というように、限定してイメージを作ったほうがよかったはずだと思っている。私も授業で、二年生と三年生とでは、違う態度を示すからだ。
 この本の著者は、私と同じ考えだった。子どものほうを見て話すのだ、と。もちろん、本文を暗記しているわけではないから、絵本を見て読む時間がたくさん出てくるのは確かだ。しかし、絵本の文字を目で追っているときにも、心は子どもたちのほうに向けているという姿勢を貫くことが必要だ、とこの本には書いてあった。まさに、そうだ。黒板に文字を書いているとき、教師は背中で生徒を見ている。そういうときに、いまだとばかりにこそこそ喋る生徒が多々あるが、これはとんでもない失敗だ。殆ど全神経を背中に集めている瞬間、そちらで喋られたら、ひそひそ声でも、実に大きく、不愉快に響く。後ろ姿の教師を見て、生徒は喋っては絶対にいけないのだ。
 さすがこの読み聞かせを教え、そういう人を増やそうと努力している専門家である。著者の理論は、一貫しており、説得力がある。この本をゆっくり読めば、絵本の読み聞かせに必要なスピリットが、全部書かれていると考えてよい。巻末の、85冊の絵本の紹介も、大いに参考になる。これだけ見ていけば、読者は自分でも、絵本を自ら選ぶ目が養われてくる。ただ、惜しむらくは、具体的なマニュアルを図版やイラストで示しているところがない、という点である。本の持ち方や、立つか座るかなど、文では適切に書いてある。経験のある私が読めば、それは手に取るように分かる。だが、読み聞かせの経験のない人がこの本を手に取り、さあやってみようとするとき、この文章の説明だけでは、果たしてそのとおりに自分ができているのかどうか、自信がもちにくいのではないだろうか、と思うのだ。百聞は一見にしかず。イラストか写真で、絵本を持っている様子の実例がそこにあると、ずいぶん理解の度合いが違うのではないかと思った。もちろん、著者の意図が分からないわけではない。一定の型にはめてマニュアル化はしたくないのだと思う。その写真のイメージら囚われてそれがすべてだと思うのでなく、自分が子どもと向き合い、子どもに大好きだよというメッセージを発信し、子どもとの関係をつなごうという精神こそ大切なのであって、そのためにはその話し手の個性なりスタイルというものがあって当然なのだ。このように何センチの高さに掲げて、などということはナンセンスなのだ。それを了解した上で、はり私は言いたい。その様々な例のあることを踏まえても、やはりイラストか何かが欲しかった、と。現場に出向いてのレクチャーでは、著者が構えて見せたりするのだろうと思う。本の読者にはその視覚的情報がないのだから、そこをいくらかでも補助的にでも助けてくれないと、イメージというものが掴めないのではないか、と案ずるのだ。
 しかし、こうした苦言は、重箱の隅を突くようなものである。絵本の読み聞かせ方についての本のうち、これはそのスピリットからして、また具体的なケースの紹介からしても、実に優れた観点から、また経験からまとめられた、実際的なガイドである。「子どもが夢中になる」という、タイトルに添えられた言葉も、決してオーバーではない。読み聞かせをこれからやろうとする方は、ぜひ一読されたい。




Takapan
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