本

『エッファタ!』

ホンとの本

『エッファタ!』
教皇庁保健従事者評議会
カトリック中央協議会
\2000+
2018.2.

 これは本が最初に紹介されてすぐに注文した。カトリックがここまできちんと協議していることは正直知らなかった。迂闊だった。しかもこの国際会議は、2009年に開かれたものだというのだ。ある意味で、どうしてこれをやっと2018年になって初めて出版したのかという気になる。否、原典は2010年に出ていたというのだから、日本語訳の問題である。こんなに素晴らしい提言と方針について、日本のカトリック側がこれまで何もしていなかったのか、そこに意識の違いがあるのではないかとすら思う。それとも、日本においてここで命じられた方針がうまく進まなかったために、わざわざ不利なことを示すわけにはゆかなかったのだろうか、と疑心すら抱きかねない。
 教皇謁見の下でのこの会議は「教会共同体のろう者」という副題をもつ本書の名の通りである。開催にあたり、教皇に対して評議会議長が、「ろう者が教会で、ここにこそわたしたちを「迎えてくれる家がある」と感じられるよう、教会がろう者にもっとしっかりかかわろうとしていることを示すために開催された」ことを告げている。マルコ7章に、アラム語の響きを残した形で記されたこの出来事は、もちろんクリスチャンならば知らない人はいない。耳が聞こえず舌の回らない人に対してイエスが、指を両耳に差し入れ、それから唾を付けてその舌に触れられたときに「エッファタ」その意味は「開け」という言葉を告げる。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようなったのだという。
 しかしこの奇蹟は、福音書の中の出来事としてだけ記録され、後の時代には封印されたかのように見える。イエスしかなしえない奇蹟であったとしても、その後のろう者は何をどう信じてよいか分からない。イエスを信じれば癒しがある、という派も多数現れて現代にも至るのだが、ろう者が聞こえるようになりたちまち喋れるようになったという話はついぞ聞いたことがない。耳に関する医学の常識からすると、聴力は一度失われたら回復することはないと言われている。補聴器や人工内耳といった処置を加えたときに、聴力の助けがあることは医学の発展によりもたらされたが、聴機能そのものには回復の見込みはないのだ。
 この記事を、ろう者はどう受け止めるのか。そうでなくても、イザヤ書などに、聞こえない者が聞こえるようになるという預言がある。これを信じるのが聖書を信じるということなのか。しかしそれを信じたからと言って、誰も聞こえるようになど、なりはしないのだ。
 するとまた、これを象徴の意味だと解する者も現れる。これは現実には治らないが、魂が開かれることを表している、などと。それが信仰なのか。それでいいのか。では癒しはないのか。癒しはある、とする人々も、ろう者に対してはどうなのか。
 そこまでいかなくても、この社会でろう者に与えられた仕打ちは、聴者がなんとなく思い描くより苛酷である。コミュニケーションが遮断されるという苦しみは、想像以上に厳しく辛いものである。
 カトリックの信徒だけがここに現れる。本書は、お偉い方々の言葉に続いて、世界にいるろう者の姿をまず前面に出し、医学的にどのような状態であるのかという理解をまず試みる。カトリックの指導的立場にある人々がどのようにろう者に対しているのかという報告もある。それから、現実のろう者の生活が証しされる。それによると、カトリック教会のミサに連なっても、何を言っているのかまるで分からないそうだ。手話通訳というものはついぞなかったようである。それで、信仰しているようで、実は十分理解が行きとどかず、とくに抽象的な概念については伝わっておらず、後から知ったときに驚いたなどという声もあった。当人がろう者である場合に加え、子どもがろうであることが分かった家庭での出来事などが、生々しく描かれる。
 そして最後にろう者の司牧という形についての考えや実態が報告される。そう、カトリックでも、手話ができる司祭や、ろう者に理解のある司祭、またろう者専門に伝道活動をする担当などが、徐々に置かれ始めていたのである。カトリックは組織的に動く。規則の上に行動していくのは、もどかしい時があるかもしれないが、現実に動き始めると、その力は強い。カトリックは現実に、ろう者のための教会を形成し始めているのである。そしてこの国際会議を経て、正式にろう者のために開かれた教会にしていくことが、ろう者のために教会がこれこれのことをなしていくのだという宣言をすることにより、具体的な措置と共に大きく前進していくのである。
 聴者が開かれていく。そこに「エッファタ」がある。しかし私は思わず読んでいて涙したのだが、信徒の証しの中で、ろう者の側が、聴者の社会へ開かれていくことを覚え、それを信仰しつつ歩み始めるところに「エッファタ」を聞いたというものがあったのである。それはある意味で象徴的な意味合いなのかもしれない。実際に聴力が回復するという奇蹟を求めるものではなく、精神論に陥っているだけなのかもしれない。しかし、私はそれだけではない霊的な感動を覚えたのだ。これはほんとうに、開かれていくのだ、と。
 プロテスタントの方々に、ぜひ読んで戴きたい。カトリックにできることは、もはや不可能なことではなくなっている。プロテスタント側が、現実にかなりの割合で世界に生きているろう者や失聴者などを見過ごしているようだと、福音伝道の名が泣くであろう。イエスのように生きることを願うどころか、イエスの敵たちと同じ道をいつの間にか歩んでいるだけとなる可能性すらある。まずは、いまカトリックが何をしているか、そしてまた、ろう者の信仰者がどのような考えをもつことがあるのか、生々しい声を、ここから聞いてみることが必要だと、切に思うのである。
 
なお、本書のカトリックのサイトにおける紹介はここをクリックしてください。




Takapan
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