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『どう読むか、新約聖書』

ホンとの本

『どう読むか、新約聖書』
青野太潮
YOBEL,Inc.
\1100+
2020.12.

 1994年に『どう読むか、聖書』という本が出版されている。紛らわしいが、同じ著書のものであり、基本線は変わらないままに、その後気づかされた細かな点を発展させつつ、考えを完成させていったもの、と見てよいであろう。著者自身も、そのように述べている。
 東京バプテスト神学校で全体が10時間に及ぶ公開講座があり、そのために用意された原稿を新書版の本にして発行したものである。著者は東京バプテスト神学校に直接関わりはないが、同じバプテストの西南学院大学の教授を長く務め、福岡の教会で協力牧師としての働きを担っている。新約聖書に関しては日本での第一人者であると言えようが、その思想は保守的過ぎるものに耐えず警告を与え、聖書そのものの叙述に対する非常に細かな指摘と、自身の信念の主張とにおいて、かなり癖のある著述を呈していると見なされているようである。しかし、年齢を重ねたこともあってか、あるいは元来がそうであるのかは知る由もないが、温厚な性格と、公平な物の見方に徹している点など、人間的に尊敬できる方だと窺っており、また、論争に関しては厳しいが、それはその論点だけのものに留め、またそれが故に、自分の理解というものについても、これが唯一正しい、などという主張をぶつけることもない。本書でも、最後に、読者がこれをヒントに自分で聖書を読んでほしい、というようなメッセージで結んでいる。
 学問的な論文ではないので、注釈は特になく、読みやすさを考慮してあると言えるが、どうしてどうして、引用や指摘箇所については、聖書によほど通じていないとついていけない内容をもっている。その意味で、聖書入門のような気持ちで手に取ると、後悔しそうである。2016年末に出品された、岩波新書の『パウロ』のほうが、まだ、解説が豊富で、パウロについてのあらましを紹介するという目的は備えていると思う。
 従って、『パウロ』で論じていることをこの場で繰り返すことはせず、しかしもちろんその論点に触れない訳にはゆかない場合があるので、その点については『パウロ』を参照するように指示する。そこで著者の議論を細かく見るためには、これら2冊を手にしなくてはならないが、それは適切な措置であるだろうと考える。ただ、重要な点については、やや急ぎ足ながらも根拠を挙げるので、論旨を追うことに差し支えはない。
 これまで多くの著書で論じてきた点を大きく変えることはないだろうと思われる。しかし本書、ないし本講演で目立つ詳論は、まず2章の「処女降誕」についてである。これは今回かなり細かく論じていく。古来キリスト教のネックとなっていた点ではあるが、安易にスキャンダラスな結論を提示したくなる反対者とは違い、著者もまたひとりの信仰者であるためであろうか、あくまでも聖書をどう理解するか、という道に徹している。著者にとり、聖書というものは、それだけカノンそのものなのである。
 もちろん、その新約聖書というものは、オリジナルが決定していない文献であることで、いわゆる逐語霊感説に対しては、徹底的に反旗を翻す。一語一語なんの間違いもないという、一見信仰深いような読み方について、それは何の根拠もなく、また矛盾に満ちているということについては、決して妥協しない。それは、著者自身がかつてそのような読み方を強いられていたこと、しかし海外留学で学んだことでもやもやとそれまでもっていたものがスッキリと剥がれ、聖書、聖書、というところに徹底的に取り組むことで、安易な聖書理解を攻撃するようになったようである。
 著者がそのような意味で排除したいものは、いわゆる「贖罪論」である。これも聖書、特にパウロ書簡を丁寧に辿ることで明らかにするのは、安易に「福音」と称して信じることがキリスト教の信仰であるかのように見なされている、「イエス・キリストが私たちの罪を贖うために十字架にかかった」というようなフレーズが、聖書を読む限り如何に聖書本文から外れているか、そして信仰という名の独断に毒されているか、という点である。
 本書でもこの軽率な贖罪による救済論に対する姿勢は手厳しい。そして、目指すのは「神の無条件で徹底的な愛とゆるしの福音」である。それを説得させるのに、いろいろな立場の人の体験談や告白である。それは必ずしも、従来キリスト教世界で注目されていたような人々ではない。どうかすると市井の普通の人の声も混じってくるようにも見えるが、一種の万人救済説の道筋を辿るのが、著者の方向性であると言えば、それともまた違う、とお叱りを受けるだろうか。
 神学者やキリスト教関係者の考えも、自分の擁護とあらば縦横に引き出してくるのだが、留学において恩師となったシュヴァイツアー先生の考えは、ほぼ全面的に味方につけていて、なにかとこの先生の名前と説とを持ち出してくる。その意味では、自分の説の根拠とする人々の引用にも、偏りがあると見られるので、単純に味方が多いというふうに読者は捉える必要がないだろうと思われる。これは、本書を「どう読むか」という問題に関しての感想である。
 パウロのいた時代、ヘレニストとヘブライストとの関係も大きく問題として取り上げられている。これは、新約聖書に限らず、初期の文献についてもつながって検討されるべきことであり、ルカがちらりと使徒言行録で触れている以上に、実は重大なことであるはずだ。本書でも後半で扱われているが、おそらくキリスト教の成立と新約聖書の理解において、この問題はもっと大きく深く論じられて然るべき問題であろうと私は感じる。著者も実はその点においては、別の大部の著書で詳述しているので、関心をもたれた形は挑んでみることをお薦めしたい。
 最後には、パウロがイエスの生涯については触れていないという、これも古来よく言及された問題について触れている。著者は、パウロはむしろわざわざ語る必要もなかったという結果に、文献上は落ち着いているものの、歴史上のイエスについてパウロが無関心だったということは決してないのだ、として、これまでよく考えられてきた問題についての意見を述べている。
 聖書という文献が、オリジナルの点で決定できないという情況の中で、それでもあくまでも聖書の文章、あるいは文字に徹底的にこだわり、それを読み込むという著者の姿勢は尊敬に値する。そのような努力が、信仰者一般に、聖書の読み方や聖書というものについての知識をどれだけ貢献しているか、計り知れない。だが、それがもしプロテスタント神学の前提ともなっている「聖書のみ」と重ねて見られるとき、本当にその文書だけが信仰のすべてなのだろうか、という疑問も生じてくる。逐語霊感説を嫌う著者ではあるけれども、たとえ初期キリスト教文書も研究対象であるとはいえ、聖書の文書の文字のみを根拠とするような立場を貫くその姿勢だけが、信仰なのだろうかという疑問である。それはカトリックのように、教会の伝統も同様に大切だ、とするものではないか、と批判されるかもしれない。しかし、逐語という点では、それを霊感としてではなく、理性としてであったとしても、同じ「逐語」となってしまっているのではないか、と思われて仕方がないのである。本当にパウロの文書の、動詞の時制が、決定的にぬかりなく、神やイエスをどう解釈するかの分かれ道を築いてしまうほどに、「正しく」書かれていたのかどうか、それは疑うことはできないのだろうか。聖書の中にはパウロがイエスの生涯について書いていないけれども、知っていたに違いない、というような想定をする著者が、聖書の中には十字架の救いということが書かれていないから、それは違うのだ、と論ずることは、もしかすると都合良く論拠を使い分けていると見られることになりはしないだろうか。
 聖書は、それに触れた人が、それぞれに、キリストとどう出会うかの可能性を、もっと豊かに許しているのではないだろうか。恰も、同じ譜面を見ても、演奏者により違った曲であるかのように奏でられてそれぞれの音楽が生まれるように、同じ聖書の文章が、信仰者にそれぞれの人生をもたらすと考えてよいのではないだろうか。それは、一定の教義でがちがちに縛ることに不快感を示す著者と、足並みを揃える考えではないかと私は密かに考えているが、それだけに、聖書のこの読み方は間違いだ、というかのような姿勢も、当たりが強すぎるように見えて仕方がないのだ。
 もちろん、著者は説教に際しても、自分の見解に誤りがあるだろうことを十分予想し、それを赦してくださるように、との祈りを添えている。それが、本書のように、たとえ新書形式の故に注釈などの細かな点は省かれているにしても、学術的な観点から論じているタイプの本ではあるにせよ、その謙虚な態度を表してはいないが故に、逆に、聖書の読み方の一面を否定し去っているようなものに見えてしまうようになっているのではないか、と案ずるのである。
 東日本大震災のとき、神は何故このような災害をもたらすのか、という怒りに震えた人もいたことだろう。著者は、マタイ伝の雀の箇所の原語を元に、あの津波で流された人とともに、神もまた流されていた、そのような神なのだ、という共感をもちつつ、神の赦しと救いについての自らの理解を説明していく。もちろんそれは著者独りだけのものではないが、「あとがき」の中で、月本昭男氏が、自分の贖罪論の否定への批判をこめているかのように、戦争や災害の犠牲になった人々が、自分の身代わりに重荷を担ったというような贖罪があるのではないか、と触れている点について、それは贖罪論批判の批判ではなく、著者と思いを一つにするものがある、と触れてあったことについては、私は、それはないだろう、という思いを懐いたことは付け加えておきたい。神の摂理のようなものとして、犠牲になった人々を尊敬することはすべてが悪いとは言わないが、私は、犠牲者が自分の身代わりになったというような言い方を安易にしたくないと考えている。恰も、ひとの命を手段のように扱っているように誤解されるような言い方はしたくない。おそらく著者自身も、私のこの感情には共感してくれることだろうと思う。それだけに、この「あとがき」が、そのような言い方に賛同しているかのように見える書き方で終わっているところについては、個人的に残念に思われてならないのであった。




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