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『どう読むか、聖書の「難解な箇所」』

ホンとの本

『どう読むか、聖書の「難解な箇所」』
青野太潮
ヨベル新書083
\1200+
2022.12.

 先に同じシリーズで「どう読むか、新約聖書」を発刊している。この「どう読むか」は、昔の自身の本にも付けていたフレーズである。文字通りの意味ではない。「こう読め」と、独自の聖書の読み方を訴える本である。
 学者の発見には、敬意を表するばかりである。素人が気がつかない、新約聖書のギリシア語の使い方を露わにしたり、比較したりしてくれる。素人ではそれを調べる時間もないし、知識もない。だが、日本語訳しか読めない者にとり、原典がどういうふうになっているか、それを教えてくれるのは、非常に有り難い。日本語訳だけでは気づかない、いろいろなことに気づかせてくれる。知らなかった知識を教えてもらえる。
 だが、そのような指摘が、「こう読め」として突きつけられると、些か脅迫的に感じることもある。聖書の言葉がどのような言葉で、それぞれどのような関連をもっているか、そうしたことは、確かに有り難いのであるが、そこから読み取ることについては、読者それぞれであってよいはずである。
 もちろん、著者も、それは弁えている。決して、押しつけるような力を見せているわけではない。しかし、聖書はこのような言い方をしている、ではなく、それはこのような意味としか読めない、というような段階に入ると、これはどうやら「解釈」の場面に入っているように感じられる。ひとつの主張が悪いとは言わないが、そうとしか読めない、という口調は、読者としてはありがた迷惑であることもある。尤も、学者というのは、それをやってなんぼという仕事であるのだから、職務ではあるかもしれない。それも、理解しないわけではない。
 著者は、実は「聖書逐語霊感説」といったものに、恨みとも呼べるほどの反発を感じている。というより、私から見ればそれに対する復讐心で一杯である、と言ってもいい。そのことは、あちこちで明言しているから、私の一方的な想像ではない。いわゆる福音主義とでもいうような立場の聖書の読み方に徹底的な批判を下すことが、その仕事の多くの場面に現れている。たとえば「贖罪論」を完全に否定する。それはそれで仕事なのであろう。福音派で、イエス・キリストが罪の身代わりに死んでくださった、というような言い方をすることが、大嫌いである。そのために、パウロを研究し、パウロのギリシア語をとことん追究した。そうして、たくさんの証拠固めをしてきた研究生活であった。
 その中で、パウロの言明、あるいは福音書の言葉が、激しく「逆説」であることを強調する。本書にも、いったい幾度「逆説」という語が出てくるか、数え切れないほどである。しかし、その「逆説」の定義が、実に単純である。あちらこちらで、その定義は、ひたすら「広辞苑」の説明以上のものは持ち出さないのである。「パラドックス」の訳語であることは説明するが、その「パラドックス」には、持ち出した広辞苑の説明とはずいぶん異なる意義がいくつもある。だが、つねに、常識外のような言い方であってもよく考えて観れば真実である、という意味しか用いないのである。
 しかし、私も幾度か触れてきたが、その「常識」というもの自体、流動的である。まるで「非常識」のことを「逆説」と呼んでいるかのようにすら見えることがあるのだが、必ずしも誰もが、そこで想定された「常識」のように考えるわけではない。私のようにひねた見方をしている者にとっては、「逆説」のどこが逆なのだ、と不思議に思うこともある。「金があれば幸福だ」が常識だから、「金がないのが幸福だ」と言うと「逆説」だ、としきりに言われたとしても、私は端からそんな常識はもっていない。なんの「逆説」にも感じない。
 そもそも聖書の中にその語があるかというと、「人々は皆驚嘆し、神を崇め、恐れに満たされて、「今日、驚くべきことを見た」と言った」(ルカ5:26)の「驚くべきこと」のほかには見当たらない。もちろん、教義的に「逆説」の意味で使われているのではない。これではまるで「三位一体」という語が聖書の中にないのに、「三位一体」を振りかざすのと似た事態になっている。さらに、事実そうでいるが論理で突き詰めると矛盾が生じる、という意味での「逆説」などは、考慮から外れている。
 各方面で、この「逆説」という言葉により、キリスト教のこれまでの考え方とは違うが自分の解釈が実は真理なのだ、ということを訴えているわけだが、その時々でうまく語っている場合があるように思われてならない。聖書には無数の写本があり、オリジナルなどというものは常に書き換えられている、という点を表に出すかと思えば、動詞の時制のほんの一つの違いによって、新約聖書全体の解釈を全く変えようともする。実に聖書に対してマニアックな態度で臨むのだ。ある意味で、この著者ほど、聖書に忠実な人はいないとも言える。
 その論拠の中心にあるのは、その著書の一つの題にもなったものだが、「十字架につけられ給ひしままなるイエス・キリスト」(ガラテヤ3:1)という言葉である。いまとなっては文語訳だけがこのニュアンスを遺しているが、キリストはいまも十字架に架かっている、というようなパウロのイエス観を強調するのである。というのは、十字架につけられているのが、過去に終わらない時制を用いているからだ。
 だが、信仰者の立場はそのような読み方にこだわる必要はない。イエス・キリストは、キリストと出会った、さらに言えばキリストが私に出会ってくださったのであるが、その出会いにおいて、いまの十字架の姿を確かに見せてくれているのだ。昔かかりましたね、というあり方で出会ったのではない。その意味では、信仰者の目の前に、出会いの場において現れるキリストは、十字架にかかったままなのである。
 聖書の言葉には、重箱の隅をつつくように探究の手を伸ばす。だが、著者の聖書の解釈には、このような神との「出会い」というものは全く出てこない。1箇所あるにはあるが、否定的な使い方と言ってよい。あるいは、「救い」という考え方が中心を示すことがない。何カ所か、単語としては登場するが、「救い主」という呼称と、引用と、消極的な意味合いであるようだ。問題は、そこではないか、と思われる。
 というのは、この著者は、箸にも棒にもかからない説教者の説教に対して、どこにも問題がない、と言い切ったことがあるのである。救いを知らない者が、子どもの作文のようなコピペだらけの、なんの命もない説教を語っても、どこに問題があるのか、と言ったことがあるのである。説教が救いをもたらす、ということには、何の興味もないばかりか、そういうことがあるのか、あったらそれは熱狂主義者である、とでもいうような姿勢である。説教は、聖書研究を発表する場なのであって、人の救いとか神との出会いとかいうことについて、何も関心がないことは、明らかである。
 礼拝説教を担当することがあっても、この本の1章を読み上げるようなものであるだけだし、気に入らない賛美歌は歌わないばかりか、起立もしない。要するに「礼拝」のためにそこにいるという意識がない。そういうふうに見えることを、ある人が訴えていた。
 確かに、構築された「贖罪論」がそれでよいかどうか、問題はあるだろう。だが、そんな理論によって私は救われたのではない。イエス・キリストが出会ってくださり、その十字架の姿に私は死を――信仰的でありながら――経験した。そこから、救い出された。理論や神学によって救われたわけではない。パウロは、旧約聖書に描かれたような動物のいけにえの贖罪を複数形で述べていない、というような指摘だけで、罪から救ったあの事実が否定されるようなことは、決してないはずである。それが、信仰である。聖書を研究対象として、そこにある「文字」を「どう読むか」という問題だけで、聖書の中で神と出会った人々の信仰体験を消し去ることは、決してできないであろう。
 聖書は霊をもたらす。そして、人を救う。人を生かす。それを踏まえて、聖書の解釈を教えてくれるのならそれは有り難いが、自身の怨念を晴らすために、救いを決して語らない自分の説教が、聖書における神との出会いを封じるようなことは、するべきではない、と私は思うのだ。
 本書の題の「難解な箇所」は、人々が疑問に思う聖書の理解しづらいところの意味ではなくて、自分の主張を言いたいために都合の好い箇所、という意味でしかない。聖書の理解しづらいところについての説明なら、『聖書難問注解』といったものの方が、きっと役立つことだろう。聖書を虚心坦懐に読みたいならば、もっと別の本をお薦めしたい。




Takapan
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