本

『どこ行くの、パパ?』

ホンとの本

『どこ行くの、パパ?』
ジャン=ルイ・フルニエ
河野万里子訳
白水社
\1890
2011.3.

 何と書いたらよいのか……主に図書館で借りてから読んだ本について、返却する前に感想文を書いてみよう、と思い立って以来、今千冊を超えて書き続けることができたわけだが、この本について、どう書いてよいのか、果たして書いてよいものかどうか、はたと困ってしまった。
 二人の障害児をもった父親の問わず語り。詩のように軽快に、ユーモアを交えて、時に自虐的に、時にもう絶望しか世の中にないという世界だけを、描いている。言葉数が少ないから、本としては早く読める。しかし、その重苦しさときたら、ただごとではない。
 どうやらブラックユーモアのような響きすら感じられるが、それとも違う。そうしたユーモアはフィクションであるのだが、この話は基本的にノンフィクションのようなのだ。
 しんみりと、だが自分だったら、などと思いつつ、頁をめくる。ちょっと笑ってしまうところもある。だが、私も思った。本を読んでこんな気持ちになることは、今までなかった、と。さらに言えば、障害者のことをこのように書いた本がかつてあっただろうか、ということ。
 フランスで、非常に多く読まれ、他の多くの国にも翻訳出版されているそうだ。それだけ感動を呼んだということでもあろう。だが、さてどうやってこの本を他の人に紹介するか、私は言葉を失っていた。
 そのことは、尤もなことだということが、訳者あとがきまでたどり着いて初めて分かった。フランスのル・モンド紙はこのように書いていたそうである。「この本について、語ってはいけない。一読にまさるものはないからだ」と。
 まことに、その通りである。やはり私は、これについて語ることはできない。語り得ぬものについては、沈黙しなければならない。
 筆者は、もう70歳を越えた。作家になる前は、テレビアニメの制作などをしていたそうである。そしていつでもどこでも、ユーモアを絶やさない人であったのだという。だが、その背後には、障害者の息子、しかも二人もいた、という状況があったことが後で分かったという。
 知能も発達せず、「どこに行くの、パパ?」と訊くことばかり。その情景は、本を開いてすぐに出会える。だがまた、そこから多くの感情と意志の旅に出かけるようになる。それは、皆さんが直接感じて戴けたらいいと願っている。そしてそこから、何が生まれ、何が得られるのか、それは一人一人が決めればよい、とも思った。
 主よ、どこに行かれるのですか? と訊いたペトロの物語があった。きっとその文化の中で、このタイトルが深く理解されているのだろう。パパたる存在は、神の役割を務める必要がある場合がある。
 キリストの使徒の名をもらった二人の障害児たち。その父親として、筆者は、神になどなれないままに、もがいていた。私たちもまた、そんなもがきの中で生きているはずだ。
 他では味わったことのない体験を、きっとこの本をもたらしてくれる。自分という存在が、あからさまになっていくのを覚え、読後の余韻から抜け出せないような気持ちで過ごしている。




Takapan
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