本

『架空の犬と嘘をつく猫』

ホンとの本

『架空の犬と嘘をつく猫』
寺地はるな
中央公論新社
\1600+
2017.12.

 僕は羽猫山吹。その11歳の姉が「この家にはまともな大人がひとりもいない」と言うところから物語は始まる。1988年5月だという年代記録が、章の題名となっている。章は、1993年9月、というふうに5年おきに刻まれ、最終章は2018年に至る。
 山吹には弟がいた。水の事故で亡くなる。母親は精神が不安定になる。山吹は、その弟が生きているものとして手紙を母親に送るという設定の、なりすましをしていた。しかし姉はそれが気に入らない。気まずくなり、やがて家を去る。
 ほら吹きの粗布や祖母も怪しい商売、父親は愛人をつくり、もうなんだかどうにかしてくれと言いたくなるほどの家族設定だ。物語は、筆者が得意とする、それぞれの視点から見える世界という意味で語られるまとまりの中で展開する。
 いったい、家族というものは、これほどの嘘の渦の中で成り立ちうるのだろうか。作者自身、不幸な家族で育った経験のようなものがあるのだろうか。確かに少し暗さは含むものの、もう少しさわやかなキャラクターや設定を好んでいたと思われた作者が、時々嫌な人間群像を描く。だからまた逆に不気味でもあるのだが、私の感覚では、嫌味はない。人間の性というか業というか、人間には自らそう重くなど考えてはいないけれども、偽りやごまかし、あるいは逃げといったものを含みながら、なんとなく取り繕って生きているものなのだろう、という前提をもっているから、そんなものだろうと思いながらこの流れに従っていくものである。
 この人と結ばれるのかしらと思いきや、そうではなくなる。山吹の周囲にいろいろな人が集まり、いろいろなタイプの人間との出会いを繰り返す。そのどれもが、いまひとつパッとしない。もやもやを抱え、目の前のことから逃げるなどして、どうにも冴えない。けれども、それが悪辣なものを宿しているわけではないと思う。よくよく考えてみれば、それは私たち自身の姿であるのだ。
 犬は想像の中で可愛がっている。そこに犬がいるかのように頭を撫でる。そういう自分を語った山吹のことがタイトルになっているのは、物語の最後のほうで生きてくるので、お楽しみにして戴きたい。そして、まともな大人のいない家族が、決してばらばらのものではないのだという、ほのかな希望を呼び寄せてくる。果たしてハッピーエンドなのかどうか、それは分からないとすべきだろうが、少なくとも絶望の中で行き詰まるようなものではないと思われる。人生、思ったようにうまくいくものではないし、何事にも明るく立ち向かえるようなわけではないけれど、小市民的な弱い心でありながらも、また背負えないような厳しい環境から脱することができなくても、そんなに棄てたものじゃないんじゃないか。30年間という長いスパンを以て、とびとびに展開する物語が、ちょっと読者を励ましてくれるように読めたら、それが望ましいと言ってよいのではないだろうか。
 そうしたら、自分にとっての架空の犬なるものが、確かにそこにあるものとして、温かな実感を連れてきてくれるのではないかと思うのだ。物語という嘘が、真実となることを確信できるようになったら、本望だ。




Takapan
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