『自由への叫び』
E.ケーゼマン
川村輝典訳
ヨルダン社
\900
1973.5.
半世紀経って手に触れた。すでにヨルダン社も、とうの昔になくなっている。時の流れを覚える。
ケーゼマンは、ブルトマンの弟子の一人として有名である。ナチス・ドイツに抵抗したと聞いている。日本の八木誠一が一時学んでいたらしい。
本書については、「訳者あとがき」がかなり詳しく説明している。著者についてはもちろんのこと、ケーゼマンの著作一般についての広い見解、そして「史的イエス」に関してケーゼマンがどう捉えているのか、についても簡潔にまとめられている。
それから、正に本書の内容に踏み込んでくるのであるが、まず最初に現れる「序言」から説く。序言は、「この小論は新約聖書と現代神学についての今日の対決における論争の書である」というところから始まる。強い感情も含めた形で、言葉が進むが、本書のテーマ「自由」についてもおおまかに語られる。「自由の叫びのための闘いは教会史を貫いている」という一般的見解に始まり、「キリスト者の自由は奪われるものではなく、与えるものであり、学ぶというよりは苦しむものである」と告げる。そうして、信仰にとって重大であることは、「今日、自由の呼びかけに耳を傾けることである」と、自由の問題を取り上げることを前面に押し出す。それは、キリスト教の危機がそこにあるからである。キリスト教には、自由が与えられているはずである。また、呼びかけられているはずである。しかし、それを失ってしまったところに、その危機があるというのである。
従って、「私は、新約聖書全体をキリスト教的自由という事柄(ザッヘ)から理解するが、この事柄は様々に変化しつつ発展して行くのだということ示そうと努力している」のだという。これが、1968年に書かれた序言である。
こうして、本論が展開する。イエスは自由であった、とケーゼマンは結論する。但し、人間の自由とはまた違うものであったはずである。続いて、ヘブライストのキリスト教徒と、ヘレニストのキリスト教徒との差異が示される。これはいまとなっては常識化していると言えるが、当時はもう少し丁寧に論じられたようである。大切なことは、これらのタイプの違いは、現代の教会にもあるように捉えることである。ナチスに抵抗したケーゼマンにとって、この観点は、相当に大きなことであったはずである。時折本論に出てくる「熱狂主義」という路線の中に、如何に危険なものが隠れているか、自身の体験をなんとか言葉にして論じていこうとする気概を感じるような気がする。
この後、パウロ書簡やヨハネ書、牧会書簡、エペソ書など、各方面から、「自由」を整理することを、著者は試みる。ヘブル書、使徒行伝、黙示録、そしてヨハネ伝と、一見ばらばらに新約聖書を辿るようではあるが、最後はイエスがキリスト者に自由を与えることを確信して結ぶ。「キリストの復活の力は、地上の今日において、キリスト教的自由として具体化されている」と、「結語」は力強く始まる。自由を生み出すキリストは、その復活によってこそ、神の支配の中にある。私たちはその中で生きているのである。自由は私たちを祝福する。その自由を求めるのが私たちの道である。私たちは、主の復活の力を経験しなければならない。ただそれだけが、私たちは生かすのである。
そのように呼びかけられた私たちは、この呼びかけに応えなければならない。そうやってこそ、私たちは自由な者となるのである。戦後20年を経てもなお、あの戦争における悪夢のようなドイツの精神的有様は、自由の否定にほかならなかった。だが、それを批判するにも、ただそれが悪だとか、熱狂だとかいうことで済ますわけにはいかなかった。人は何によって生きるか。パンのみでないことは了解したとしても、それでは何なのか。神の言葉によってである。だが、神の言葉がもしイエスであるのなら、イエスがいまも生きていること、永遠の命の中にあることを踏まえなくして、私たちは頼れるものがない。十字架に続く復活こそ、人を生かすものである。私たちは如何なる束縛にも不自由にならず、この復活を信じることで、自由を身に受けようではないか。
表向きの議論に留まらず、ケーゼマンの背景について、ほんの少し想像するだけでも、その叙述が生きてくるように思われる。それを覚るための、解説やあとがきは、やはり貴重であることを、改めて知るものである。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド