本

『詩集 伝説の少女Rへ』

ホンとの本

『詩集 伝説の少女Rへ』
堤隆夫
海鳥社
\1,400
2003.12

 詩集の評価は難しい。どだい私には、詩を判断する力量も知識もないが、たとえあったとしても、詩集について発言するのには勇気が要るだろう。
 同じ「し」にも「詩」とは異なる「詞」がある。ヒットした曲であるからよい歌詞であるかどうかは、また別であろう。曲がよくて知られたものもあれば、歌詞が人の心をくすぐって売れたというものもある。また、そもそも売れるということ自体が、商業的な側面における物差しであって、そのことが歌詞の良否を決めるものではあるまい。売れたかどうかで判断されるなら、宮澤賢治もゴッホも、何の才能もなかったことになる。  さて、この詩集も、読者がどう感じるかによって、自由に受け止めるべきだろう。ただ、この作者は、どこか自分の世界に陶酔しているかのように見える点は指摘できるだろう。自分の中から生まれた言葉が、他者へどう伝わっていくか、他者の世界にどう関わるか、もっと言えば、他者がどう受け止めるか、ということには無関心であるように感じられるということである。
 もとより、芸術家というのは、それでよいのかもしれない。また、事実私自身、詞を量産していたころには、そのような考えであった。――自分には自分の世界がある。それを理解してくれる人だけが理解してくれればいい。もし一人もいないなら、それはそれでよい。これが自分の中から生まれた真実なのだ、と。
 作者の詩は、母親に向けて叫ばれている。そのようなスタンスから捉えると、どこかせつないものが響いてくる。それでよいのかもしれない。ペダンティックな言葉の数々も、よくよく眺めていけば、そうした人間の心情のひとつの真実の姿に届くような気がする。
 ただ、いかんせん、作者には一つの特徴、ないし欠点がある。それは、自分の言葉が必ず、他の多くの概念を前提しているということである。学術用語や専門用語を多用することによって、世界が広がるかのように感じているように見受けられるが、おそらく効果は逆である。先人ないし専門家の唱える言葉を多用することによって、詩の世界は却って制限を受ける。用語を知らない人を突き放すようなその用い方は、用語を知っている者から見れば、特別な檻の中に囲まれていながら自由な世界を飛翔しているかのように思い違いをしている魂を見つめるような思いがするのである。
 おそらく誰もが知っている言葉を示して、その言葉の中に、誰もが気づいていなかったような、そして指摘されればああそうだなと表象を読者が繰り広げていくことができるような、そんな意味や世界を盛り込むことができるのが、詩人の役割の一つである。そうすることによって、詩は、他者と共有するものをもち、言葉の力を発揮していくものであろう。
 だからたぶんこの本は、「詩集」という表現を抜きにして出版するなら、一人個人の思惑を詰め込んだものとして、好意的に捉えることができたのかもしれない、と思う。同じ福岡に住む者として、これはアドバイスになるのか、ただの外野の遠吠えになるのかは、知るところでないけれども。




Takapan
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