本

『デミアン』

ホンとの本

『デミアン』
ヘッセ
高橋健二訳
新潮文庫
\240
1951.11.

 ヘルマン・ヘッセ。懐かしい。若い頃に推薦図書にあった。「車輪の下」は悲しかったし、自分と何か似たものを感じた。ただ、実はダイジェストで読んでいたので、最近フルで呼んだ次第であったが、やはりあれはキリスト教への信仰があってこそ読める小説ではないかという気がした。
 今回の「デミアン」もそうである。但しこれは、ヘッセ自身の転回による作品と言われ、信仰という面からも、通常の信仰や教会を批判しているとも取れるために、物議を醸したものであったらしい。
 ヘッセ自身に重なる少年像としての、主人公シンクレール。まだ10歳であったが、おとなしく真面目で内省的。しかしちょっとカッコつけについた嘘が、窮地に追い込んでいく。それを助けてくれたのが、少し年上のデミアンという友人。シンクレールは、デミアンの人生観に心を揺すぶられる。
 多感な少年期を過ごし、青年期を経ていく中で、デミアンの影響は、シンクレールを大きく変えていく。神や信仰についても、すっかり歪んだものをもつようになってしまった。そこには、聖書や教会に対する、ヘッセの疑問や批判が混じっているのかもしれない。社会に対する矛盾を突きつける思いがあるのかもしれない。どうであれ、確かに内心を深くえぐる作品を描いていたヘッセが、何か歪んだ心、あるいは世の中の狂いのようなものを描いていくというのは、確かにひとつの変化である。
 本作は、1919年に発行された。第一次世界大戦終了の年である。つまりヨーロッパにおけるかつてないほどの規模の戦争を目の前にして、従来の西欧の価値観が崩れていったというのは、多くの知識人が受けた衝撃であったが、ヘッセもまた、歴史の大きな変化をまともに受けたということなのであろうか。
 最初はこの内容への批判を恐れてか、匿名で発表されたらしい。後にヘッセだと分かってしまったために本名を出したが、風当たりが強かったのではないかと思われる。
 手塚治虫にも、劇画との闘いの中で暗い時代があったが、芸術作品を生むということは、作家の心の状態がそのまま作品に反映されていくものなのだろう。だが、それ自身が悪いわけでもないし、あるいはそれを乗り越えて、従来のままではたどり着けなかった境地まで足を踏み入れることができる、というのも本当だろうと思う。その作家が真実であるのなら、きっとそうしたところまで行き着くものであろう。
 ラストシーンはひとつの衝撃でもあるのだが、これはいまここで暴露することはできない。あっという間にそこに行ってしまう急転直下の結末、それはヘッセが本作の最初を綴り始めたときから狙い澄ましていた、結論であったのではないかと思う。そこへ至る道を、ていねいに心理描写を輝かせながら、つくってきたのであろう、と。
 それにしても私が驚いたのは、この本の「はしがき」である。最初の2頁余りの「はしがき」は、これだけでひとつの文学作品としても成立するくらいに、私に迫ってきた。作家が小説を書くということがどういうことか。空しい人生というものはないのかどうか。道を探求する自身の精神的な歩みを重ねて告白した、魂の言葉が並べられている。最初にここだけでずいぶん感動したものだが、物語を読了して、再びこの「はしがき」に戻るとき、ヘッセが直にそこで語りかけているような思いに満たされたということだけは、お伝えしておいてよいのではないかと思っている。




Takapan
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