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『出来事の言葉・説教』

ホンとの本

『出来事の言葉・説教』
加藤常昭/教文館/\4500+/2011.10.

 読みたかったが手の出ない高価な本であったが、古書が安くならないかとねばり強くリサーチしていたら、あるとき手の届く範囲で美本があると知った。ひとつだけ、格安である。すぐに注文した。ほんとうに新品同然だったから、半額以下なら大もうけだと思った。
 こうして加藤先生の説教の本筋にまつわる大部の書を繙くこととなった。
 テーマははっきりしている。著者のいつもの持論である。そしてこれは各論文や講演をまとめたもので、書き下ろしではない。しかしだからこそ、常日頃繰り返していることが重厚に塗り重ねられていく。読む方としては、繰り返されることの重みを噛みしめることができるというものである。
 そして、ここでは異例とも言える、加藤先生自らの説教に対する解説が入っている。一種の批判であるが、これは貴重である。そして後半は、パウロ書簡から黙想という作業を行い、丁寧に短い区間にたっぷり時間をかけて釈義を行っている。これにたくさん触れるという機会は気、あまりない。出来上がった料理としての説教を読んでも、そのレシピや下ごしらえは分からない。ギリシア語を駆使したその調査、説教の準備といったものが明らかにされるというのは、舞台だけではなく役者の日常やひとりでの練習などを全部晒すようなものである。本人はどう思うか知らないが、読者としてはありがたく、しめたものである。
 神の言葉がただの音や文字という意味での言葉でなく、それが生きた言葉、生かす言葉となる上で、現実存在として現れる、その出来事として、説教はなされるべきものである。この一筋のために、多くの労力を注いだというわけである。しかし、説教塾でもなかなかこれは理解されなかった様子が記されている。誰でも最初に、思いもよらぬ概念を示された時には、十分理解できないものであろう。著者はしかしそれをもどかしく思いながら、丁寧にこれを説いていく。
 時に、実際の教会での苦労話も入る。もちろん、ボーレン教授など、親しんだドイツの師や、熟読したドイツの本などによる刺激も満載であるが、実際にひとと触れあったエピソードは、やはりあたたかい。それでいて、神の言葉の出来事としての説教を主張するときには、決して妥協せず、強かである。これが加藤節というものであろう。
 思えば加藤常昭先生のこの手の本は、たくさん触れてきた。その訳書も、紹介されるとすぐに読みたくなった。それは、私が説教というものに対して普通以上のこだわりをもち、その意義を深く考えたことがあるからでもあるだろう。説教を通して神が語りかけ、その言葉が命となること、人を生かすものであること、それほどに教会で語られる説教にはすばらしいものがあり、またすばらしいものとするように祈り求めていかなければならないことを強く願っているのは事実である。だから、読み慣れた著者であるというだけでも、本書が主張していることについては、迷いなく理解することができるのだった。そして、後半の釈義も実に楽しく読ませてもらった。
 そこには、福岡の青野太潮先生のことがしばしば引用されていた。こちらは日本新約の長ともいえ、殊にパウロ書簡については権威といってよい。いわゆる岩波訳のパウロ書簡の翻訳者である。この岩波訳をしばしば加藤先生は引用し、評するのである。それは、教会が用いる儀式のための聖書協会などの訳にはない、学的な魅力があるのだろう。直訳調であったとしても、ギリシア語が伝えること、パウロが言いたいことをそのままによく伝えているということが言えたのかもしれない。それで、その引用は殆どすべて、それがよいとか、それに賛成だとかいう姿勢であった。自由神学的な立場の訳であっても、学というものは、長老派信仰と教会形成に熱心な著者を昂奮させ、これらの立場を結びつけるものとなりうることがよく分かった。
 しかし、パウロの言いたいことは、果たして本当に説教のことばかりなのだろうか。著者は、異言に対する預言のことを、いまでいう説教だという捉え方で押し通すのだが、ひとつの解釈として魅力があるけれども、そう言い切ってしまってよいのかどうか、十分な検討はなされていないように見えた。なにもかも、説教という角度、教会形成という角度から切っていくその姿勢は、時に柔軟さを欠いた、権威的な力強さをも伝えてくる。それが悪いとは言わないが、命の説教ということを第一としいない立場からすれば、受け容れるところの薄い解釈となってしまわないか心配である。主張は一本気で分かりやすいから、これはこれでもちろん悪いことは何もないのだ。しかし、一定の仲間の心には響きわたり、そうでなければ何も響かないというようなことがあるとすれば、それこそ、説教がそういうものでよいのかどうか、批判されなければならないだろう。聖霊によるのかもしれないが、結局分かる人には分かり、分からない人には分からない、そういう福音がキリスト教の本筋だというふうに聞こえかねない虞があるように見えたのだ。
 私は根底的に著者の姿勢は好きである。そして言葉が命をもたらすというあり方を自分のモットーとしていることも確かである。しかし、あらゆる聖書の声を、ひとつにまとめてしまう勢いは、時にブレーキをかけることも必要なのではないかという気がしてならない。説教は説教、しかしそういう形とは違う形をとる、言葉の立ち現れ方もあっていい。教会の放つメッセージもそうだし、教会の行いもそうだ、どちらも言葉が現実となっていくあり方に相応しいものだと思う。さらに、語られた言葉に生かされた一人ひとりが、出て行って、たとえその時に雄弁に語るのではないにしても、神の言葉を現実にする出来事として置かれていることに違いはないのだろうと思うのだ。
 しかし、世の牧師には心得て戴きたい内容であるのは確かだ。そこまで時間をかけられるのかどうか知らないが、説教には命をふきこんで戴きたい。そのために、説教に磨きをかけるための努力は怠ってほしくない。これは切に、そう思う。会衆もまた、それに応えるだけの真摯な聴き方をしなければならないという、礼拝の場であるために。




Takapan
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