本

『でいごの花の下に』

ホンとの本

『でいごの花の下に』
池永陽
集英社
\1680
2005.8

 読み応えがあった。こんなふうに引きこまれていく小説には、最近出合わなかった。
 沖縄が舞台ということで、開いてみた。しかも、沖縄戦を背景にしている気配がする。
 観光リゾート地としてしか沖縄が見えない場合もあるだろうが、私はそんな気にはなれない。沖縄の人々からは、強い恨みをもたれている可能性を払拭できないでいる。もちろん、そうした気持ちで睨んでいる人ばかりだなどという偏見を植え付けるつもりではない。
 もしかすると、太平洋戦争にまつわるアジアへの負い目はナンセンスだと叫ぶ人々の中に、沖縄への負い目をもつ心が期待できないのと同じように、ともすればかき消されようとしている、一つの空気が流れているのではなかろうか。だとすれば、もっと読まれてほしいと切に思う。
 信仰をもった後私は、沖縄に頭を垂れ、新婚旅行でどうしても沖縄を訪ねなければ気が済まなかった。それから当地でも資料を買い求め、通り一遍のことに過ぎないかもしれないが、沖縄については学んだ。だからこそ、この小説に惹きつけられた可能性もある。
 小説の内容については、あらすじをここで暴露するようなことは避けたい。だが、何かを伝えなければならぬ。燿子なる主人公が、輝くという名をもつその反面、くっきりと影がつけられた存在としての沖縄出身の重吾すなわち自分を重んずるという名をもつ男――彼は一度として「登場」してこない――が、どんなに強烈に迫ってくることか。
 通奏低音を響かせる、照屋昌賢という老人は、甚だ優れたという意味の名である。アクセントをつける圭とは、美しいが角立つトラブルを意味し、若い未来を暗示する祐月とは、過ぎ去る月日を救う意味をもつ。
 これは私の解釈に過ぎないが、こうまで内容を的確に指し示すネーミングは、おそらく意図的なものであろうと想像する。
 サスペンスでもある。恐怖感をも呼び覚ます。
 これはフィクションだが、架空であるからこそ、映し出す真実というものも必ずある。その意味で、真実な物語に触れることができたことを、喜ばしく思う。




Takapan
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