本

『きこえない子の心・ことば・家族』

ホンとの本

『きこえない子の心・ことば・家族』
河ア佳子
明石書店
\1260
2004.10

 聴覚障害になるというのは、大人でももちろん辛いことであるし、受け容れられないという気持ちから落ち込むなどの事態になることは、当然のことと理解すべきであるだろう。しかし、子どもの場合、それがどうなるか、それはさらに難しい問題となるだろう。中には、受け容れていく子どももいるかもしれないが、事の次第が理解できるときには、耐えられないものとしてのしかかってくるであろうと推察する。いや、親に愛されるという経験を積んでいく幼子の間、つまり言葉のない時期であったとしても、その愛される様の受信システム、あるいは発信システムにストップがかかるのであるから、事は重大である。
 だが、そうしたことの想像すら、なかなかなされるものではない。時に手話がブームになって、手話をちょっとしてみたら通じた、うれしいな、というレベルで興味本位の理解でいるとなると、いったいどれほどの苦しみと疎外感とを知ったことになるのか、疑問極まりないものである。
 この本のサブタイトルは、「聴覚障害者カウンセリングの現場から」となっている。臨床心理士としての経験から、痛々しい出会いの経験を紹介してくれている。手話通訳士協会の機関紙に連載されていたものを編集したのがこの本である。手話や聴覚障害者への理解を求める出版物は、いわば美しく描いている。悪いイメージをもたれてはいけないという思いもあるのだろう、教科書的な頑張ろう精神や、いくぶん美化された障害者の姿、あるいはどこか現実味のない理想論が記されて終わり、という雰囲気のものが少なくない。
 しかし、この本は違う。生活の中の何が辛いのか、不便なのか、そして子どもたちがどんなふうに荒れるのか、子どもたちが求めてしかるべきものが与えられないジレンマをどう克服していくことができるのか、現場の人はどうやって乗り越えているのか、あるいは乗り越えられないのか……。健常者の視線もそこに加わる。温かそうな気持ちなのは見ている健常者たちだけであって、当の本人はどんなに苦しいのか、見せつけられる本は、そうそうあるものではない。まさに生のカウンセリングの現場がそこにある。
 しばしばこの本に見受けられるのは、口話教育への批判である。一時、手話は障害者の自立を妨げ、鍛えられる機能をも鍛えず回復の道を閉ざすなどとして、読唇術さながらの口話教育が殆ど強制された時期がある。手話を学校で使ってはならない、などとするのである。著者は、これに真っ向から反対する。それがどれほど歪んだ子どもたちをもたらすことになったのか、明らかにする。事ある毎にそのことに触れている。
 そう、近年でも、障害者は自立すべきである、などという理想を基に、自立支援法が用意された。そう簡単に自立できるのであれば、誰も文句は言わなかっただろう。当の障害者はそうした法律を決めることができず、健常者ばかりが勝手な善意で法律を定めていくことに対する悔しさも、きっと多くの障害者が感じたことであろう。無邪気に善意から定めたのかもしれないし、もしかするとたんに政府の福祉政策をクリアするために弱者を虐げる立法をしたのかもしれないけれども、それがいかに当該の人々を苦しめることになるのか、想像力すら及んでいなかったのだ。それは、一般の私たちもそうなのである。
 子どもたちの痛みが紹介されている。目を背けず、健常者はそれと向き合いたい。真実の姿を知ることなくして、何ら解決が図れる訳ではないし、痛みを覚える人と寄り添う心構えなしには、何の解決も来たいできないということを、まさに健常者も痛感しなければならないであろうと思う。
 綺麗事でない、障害者の苦悩を少しでも知るために、この本は大切な貢献をしているものだと思う。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります