本

『出会いとしての真理』

ホンとの本

『出会いとしての真理』
E.ブルンナー
森本あんり・五郎丸仁美訳
教文館・国際基督教大学出版局
\2800+
2006.9.

 イエス・キリストと出会う。私にとり、これがどんなに大きな出来事であるか知れない。救いはただその一点を焦点として成り立つことだと思うのである。
 そこで、本書のタイトルと紹介を見たときに、ぜひ読みたいと思っていた。しかし、流通していないときがあった。また、古書として知ったときも、かなり高価な値がついていて、手が出せなかった。しかし諦めずに様子を見ていると、手の出せる価格に落ち着いてきた。それですかさず手を伸ばした。思いのほかきれいな本が届いて喜んだ。
 ブルンナーの著作に触れるのも初めてだった。いろいろ批判も飛び交う神学者のようであったが、私は本書について、決して期待はずれな印象を持つことはなかった。
 議論は、哲学的な論を踏まえていた。真理概念の紹介が長く、私には既知のことであったが、これも慣れない読者を慮ってのことだろうと思われるし、確かに必要な議論であった。科学的なあるいは伝統的な真理概念とは違うものが神学的に、しかもブルンナーの見出した救いの焦点を伝えるために必要な説明として投げかけられるとき、その議論が活きた。
 客観主義と主観主義の対立を通じて、論は展開される。真理が規定されたものとしてそこにあることから構築されるべきなのか、それとも人間の感情めいたものが優先されて然るべきであるのか、という考えの軸が、いわば出会わないままに混乱していた神学の問題が、いまここに出会う真理という場をつくることによって解決する、と言いたいのだろうか。だとすれば、これは、大陸合理論とイギリス経験論との対立を不毛なものに終わらせまいとして、認識する主観と物自体としての客観との一致をコペルニクス的転回によって解決しようとしたカント哲学の神学バージョンであるのではないだろうか。するとそこに「真理」という概念が鍵になる理由も分かろうというものである。
 もちろんここには、聖書という前提がある。そして哲学的認識論とは違い、人格の成立、人格の交わりという生き方が関わってくる。だからまた、それの神学バージョンであるというわけである。その真理は、まさにキリストである。私は道であり真理であると言ったイエスこそが、この対立を親和させる焦点であることは間違いない。これを、あらゆる聖書的問題を踏まえるかのようにしながら論じていく本となっている。
 だからここから、宣教論も出て来るし、聖礼典がどう秩序づけられるのかについても触れなければならなくなる。教会論も当然言及しなければならない。こうしてブルンナーは本書において、壮大なプランの中で、ひとつの神学的宇宙を築いているように見えるのである。
 訳者は、最終章から読むのがよいのではないかと提案している。これはまとめでもあり、今挙げた、あらゆる神学的話題への展開が紹介されるところである。そこにこそブルンナーの想定していたものが短い中に挙げられているからであろう。一つの読み方であるはずだ。しかし、他の議論も比較的平易であるし、私はその楽しみは最後にとっておいて、そこにつながるのか、という驚きで体験していく普通の読み方のままでもよいのではないかと思っている。
 初版は1938年であるという。実質的に最後の著作となったようである。熱意溢れる書であることは読んでいてもよく伝わってくる。しかしこれは著作集に入れられることがなかったといい、訳者は提言して、この本の重要さを訴えた経緯があるという。
 ブルンナーは日本で教鞭をとっているる主知主義的になってしまうことなく、伝道などの実践的な方面において信仰がはたらかされていくことを願っていたともいう。学者として安住することなく、活きたキリストのはたらきの中へ遣わされていく者となるべく、まずは主と出会いいのちを与えられた者として立ち上がっていくことになるように、そんな願いをこめて、救いの要である「出会い」を「真理」そのものとして提示したとも考えられる。日本の教会はこの挑戦を受け止めたのだろうか。1966年に亡くなったブルンナー以後半世紀を過ぎたこの日本に教会が、果たして主と出会い、真理を携えて歩んでいるものかどうか、自省せざるをえないのではないかと思われる。見直されてよい著作ではないだろうか。




Takapan
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