本

『データで読む平成期の家族問題』

ホンとの本

『データで読む平成期の家族問題』
湯沢雍彦
朝日新聞出版
\1400+
2014.10.

 四半世紀で昭和とどう変わったか。タイトルの指摘が光っている。これは、著者の研究の中での一定の期間をも意味するようだ。一般書ではあるが、非常に数字が多いことか目についた。数字は重要である。正確な、客観的な指標になる。だが、紹介された数字を適切に分析するだけの専門知識を、読者は一般に持ちあわせておらず、理解のための訓練も受けていない。少し、お手柔らかに、と言いたいところだ。
 しかし内容的には、私たちの生活に直結している内容であり、また切実である。とくに家庭をもつ身とあっては、調査されているひとつひとつが、時に深刻な話題ともなりかねない。まるで新聞の社会面を賑わした話題についての、解説が並んでいるかのような内容だが、逆にそれだからこそ、新聞やニュースの続きのような感覚で受け止めていくことができる。これはこの本の強みである。つまり、著者の信念や価値観を押し付けてくるのではなく、とにかく今世の中はこのようになっている、ということの比較的客観的な提示である。そんなはずはない、と否定することが難しい内容である。
 私たちが社会生活を送る上で心がけておきたいことがたくさん並ぶ。しばしば日本人が気にしているように、他人はどのようにしているのか、という気持ちをも満たしてくれそうである。離婚問題から、親子の関係、それらがまたほどよく事例を以て示される。児童虐待は近年大きな関心が寄せられる問題であり、その他、詐欺や葬儀などについての最近の動向も、新聞の話題の続きのように掲げられていて、読み進みやすい。
 しかし、新聞でもともすれば忘れられるのだが、四半世紀前の常識、あるいは明治期の様子など、専門家であってこそ指摘できるような別の視点というものが時折登場するので、勉強になる。あるいはもう少しその点を強調してもよかったのではないか、とも思う。私たちは、いつの間にか今の環境や今ふうな報道の内容が、常識とされ、あるいはそれこそが真実で「ほかにはない」ようにさえ考えがちである。だが、かつての人々は同じような情況でも、全然違う前提や考え方をしたという場合がある。悪く言えば、同じ轍を踏むようにして、私たちは間違った道を選んでいるのかもしれない。あるいは、以前ならば解決できた方法を知らないばかりに、悪い選択をしてしまっているのかもしれない。
 歴史の中から、あるいは他の習俗や常識の中での人間の判断、さらに同時代であっても、他国の視点というものが、私たちの現状を打破する角度を教えてくれるということを、尋ね求めてよいはずである。
 出版社の都合であろうか、記事や年表など、新聞から取材てきる内容については、すべて朝日新聞をとっている。他の新聞も参考にしてよかったのではないかとも思われるが、さしあたり家族問題であるから、事実の羅列においては、それはそれでよいだろう。だが、論調もひとつの新聞のものと歩調を合わせていくとなると、これまた別の視点が欲しいと読者は思うかもしれない。このバランスは難しいが、ひとつの課題であったのではないか。
 最後に著者は、少子化問題において、深刻なデータを提示する。もしも今のままでいけば、日本人は絶滅危惧種間違いないというのである。それはなんとなく誰もが感じている。しかし、かなり具体的な数字でそれが計算されてくると、これはひとつの現実として見つめなければならなくなる。結婚や出産について、確かにすべての人に迫る必要はないことなのだが、きっとそれを望んでいるのにできないとか、なんとなくしないとか、そういう空気が拡がっている現状については、たしかに改善されてしかるべきものであろう。この本がいろいろ考えさせてくれることは確かだが、最後にきて、時限爆弾を仕掛けられたような強い印象を与えた。政治家も無策だとは言わないが、事実上の無策であると私の目には映る。形だけ仕事をしたように見える有り様だということである。分かっていない。どうして少子化なのか。そう指摘すると、政治家は必ず別の理由を持ち出す。財源云々、景気云々。しかし、何を守ろうとするのかを考えるならば、そうした理由付けが未来に対する虐待であることを、もっと深刻に捉えなければならない。自分が生きている間は穏やかであろうと安心したという、ユダヤの王のような心理に、気づかなければならない。たとえば教育は、費用を賄える家庭ばかりが可能な代物となっているこの国が、他の多くの国に倣うだけでも、有能な人材が真に活躍できる、知恵ある国となっていくであろうというのに、それかできないということなど、気づいて、実現できる勇気をこそ、政治家にはもって戴きたいものなのである。




Takapan
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