本

『大世界史』

ホンとの本

『大世界史』
池上彰・佐藤優
文藝春秋・文春新書1045
\830+
2015.10.

 これは強力な布陣である。この二人の対談となれば、どんな深みが暴露されるか知れない。まさか対立して収集がつかないことになるのかしら、との不安も感じさせつつ、そこはさすかにオトナ、互いにこの企画を盛り上げて、読者に実によい素材を提供してくれた。これは面白い。
 世界史を教えてくれる教科書という意識で語られているといえる。「現代を生きぬく最強の教科書」というサブタイトルが付いている。それは、最初の動機付けからがすでに違っているのだ。なぜ世界史を学ぶのか、その意味から問うている。それは、自分を知ることであるという。そして、世界の今を知ることであるという。私たちは、自分はこう思うとか、自分の信念ではこうだ、などと語りたがる。だが、それでよいのだろうか。その自分なるものが、たんに時代や周囲の声に流されて創られて、最悪の場合は操られて自分だと思わされているようなものでしかないのではないか、という疑いをもたなくてよいのだろうか。これを確かめるには、その自分の出来を知ることだ。自分はどこから来たのか。それが歴史である。
 こういう理屈を、対談という形で表していくのだから、二人の力量というものが最初からいきなり出ていると言ってよい。この後、中東から中国の今とそれを形成した背景としての歴史、ドイツの姿、米露の関係と世界を扱いつつ、話は沖縄にも及ぶ。私はここに強く反応するのだが、日本で世界を見つめるとき、沖縄はどこかつねにすでに「世界」でもあるのだ。これはごまかしてはならない。ヤマトにとり、沖縄は単純に同一地域であるのではない。だからこそ、政府は沖縄を時に利用し、時に平然と棄てもしたのだ。
 こうして世界から日本に及ぶ地域を見つめてきた後、イスラムと核の問題、歴史を変えたウェストファリア条約という近代史の転換点を指摘する。このあたり、特色があるし、学ぶところが大きい。こうした指摘が、単純な教科書では出てこない。
 最後に、ビリギャルという、最近の話題をシンボルとして、そもそもビリギャルなるものが話題になるという構造そのものに、日本社会の特別な事情が現れていると暴露する。日本の教育はどうなっており、どうなろうとしているのか、危惧を明らかにしていくのである。だから、世界史をどのように学んでいけばよいのか、学生に、また大人に向けてのアドバイスがなされ、この本の最初にまた還ってつながっていく。粋な構成である。
 ビリギャルといっても、大学に合格できる素地が実はあったのであり、また入りさえすればという現状もそこに現れているというのだから、指摘は確かに厳しい。そして国家が文字や言語を扱い、歴史を作ろうとする事実を明らかにし、エリートという名のもとに、国家に都合のよい人材を育成することを第一としているために、大学改革などといいつつ、国家自らの目的を示してしまっているのだと指摘する。自己愛の精神が教育でつくられていくという現実は、私も共感する。現に、そうした自己愛人間が、教養あると自称する人々の中に溢れていることは実感している。それは、価値を自分が決めると宣言してすべての議論を終わりにする方法がまかり通る世の中であり、自分の世界に閉じこもることであると告げ、それは結局自分を見失うことになるという二人の懸念は、深く頷くしかないと見た。
 各国事情の内実については、神学あるいはジャーナリズムに猛者としての二人の詳しさには、知識や情報がふんだんになければ全部ついていくのは難しいが、世界史を学ぶ意義や世界に対して自分がどう向かうかという意識などについては、私はよく感じ取れたと思う。ユニークな本である。そして、読者にとり必要な知性を刺激するものとして、もっと話題になってよいと思う本である。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります