本

『大学は何処へ』

ホンとの本

『大学は何処へ』
吉見俊哉
岩波新書1874
\900+
2021.4.

 すでにこの岩波新書でも、『大学とは何か』で大学のあり方を問うている著者が、「未来への設計」というサブタイトルで示した視野を以て論じた、続編のようなものだと言えよう。ほかの出版社からも、このテーマでの定言を近年出しており、大学そのものについて問う大学人という意味では、純粋理性批判の如く、自らの能力を検討するという鬼気迫る勢いを感じるものである。
 今回は、2020年のパンデミックを経た中での議論である。つまり、ここで大学は大きくあり方を変えさせられた。もちろん、インターネットを利用しての講義や回線利用の研究や教育というものは、これからいずれ取り入れられていくものとしての準備は始まっていた。しかし、2020年には、準備云々というどころではなく、もう現場で使わなければ何もできないということで、見切り発車的にガンガン始まっていったのである。否応なく始まってしまったものではあるが、やってみればみたで、それなりのスキルをもてるように、大学側も学生側も、動いている。だがそれでよいのか、こんな点は直さねば、と試行錯誤の日々であるようにも見える。
 こういう情況が、大学の疲弊した有様にどんとぶつかってきたものだから、いま大学はへたをすると瀕死の息づかいをしているのかもしれない。いったい、日本の大学はどうなっているのか。世界的な大学の領域から、どんどん弾き出されていることをどう捉えたらよいのだろうか。著者は大学内部にいて、生々しくそれを感じ、私たちに提示してくる。
 そもそも大学とは何か。それは前著でたっぷり説明されているのだが、本書でも必要に応じてそれに触れる。そのテーマを延長していくことにより、本書の眼差しが可能になるのである。
 やはり印象に残るのは、産業の目的に利用されていく運命にある日本の大学の実態であろうか。日本においては近代の大学というものが、その路線で始まっているので、ヨーロッパの伝統の中にある大学のあり方とはまるで違う。しかし、著者がしばしば気にしているのは、中世における西欧の大学の衰退である。少し込み入っているが整理すると、そもそも人の移動で始まった大学などの学問世界であったが、印刷術が調うと、出かけて移動しなくても学問を知ることができるようになった。集まる形での大学というものが不要になる傾きになるというのである。いままた、集まらない形で運営される大学での学びが仕方なくであるかもしれないけれども始まってしまったが、これもまた、そもそも大学というものの存在価値を変えてしまうエポックとならないかという懸念である。そしてしかも、産業の道具として、企業の原理で運営されていくようにと促されている。だが、学問のために必要なものは自由な時間であることを著者は幾度も強調する。雑務に喘ぎ、企業の論理で経営を打破していくべし、と言われたならば、まさに産業の一角を担い、産業の目的のために利用されるばかりとなるのではないか、それは大学の再びの死を意味するものとなるのではないか、というのである。
 とにかくいろいろな視点から、大学が問われつつ、大学のこれからの姿をスケッチしようと努めている。岩波新書としてはかなり厚い部類の本となってしまった。その意味では、様々な視点から問題点とその背後にある事情や歴史などをきちんと提示してくれており、これをもとに学び会を開くというのもよいのではないかと思われる。実際に動かしていくためには、政治的な範疇のものもあるし、大学事態の運営や方針の変換を必要とするものもあるので、簡単には始められないだろうとは思うが、考えられうる問題点を多く持ち出しているので、私たちは独りででもじっくり考える機会を与えられることになるだろう。
 特に大切にしたいのは、過去の歴史である。私たちは今の大学しか現実には知らないわけだが、それがどのようにもたらされたのか、過去の経緯があるのは確かで、それを知ると、そんな訳でこれが始められたのか、と意義深いことを知ることがあるであろう。それなら改めればよい、という気持ちにもなるし、また、その意図は同じであっても今ならこれができる、といった案が生まれるかもしれない。旧制高校の事情や、高専の意味なども、背景をこのように教えてもらうと、なるほどと思うし、それをまた生かす可能性もあるのではないか、という意欲も湧いてくるものである。
 社会人が大学で学べず、同じ年齢や世代の者ばかりが集まる大学は、実は世界的には珍しいタイプでもあり、それが日本における大学の意味というものの基盤を伝えているかもしれない。「人生で三回大学に入る」という考え方があるというが、大学がいつからでも学べる場として、また機会として機能するようなことは、日本ではありえないのだろうか。私もそれを寂しく思う。
 終わりのほうにくると、大学は何のためにあるのか、という著者の考えがかなり全面に出てくる。知的創造をなす機会を人間がもつための場、というと著者のまとめにはなっていないだろうと思うが、そのための自由な時間をふんだんにもつことを大切にすることを忘れたとき、学問は二度と復活しない死を迎えるかもしれないという恐ろしさを感じる。もちろんそれは最悪のシナリオだが、必ずしもただの悲観的な空想ではないかもしれないという懸念はあるのだ。真理はあなたがたを自由にする。これはキリストの宗教的な場面での言葉だが、人間の学問的には、自由があればこそ真理が探究できる、というふうにでもなるだろうか。ひとは何処へ行くのか、という問いを考えるためには、ひととは何ものであり、果たして自由であるのか、ということを考慮することはきっと必要であろった。大学は何処へ行くのか。それを左右するものが、私たち一人ひとりであるということを、適切に知り、請け負う者でありたいと願う。




Takapan
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