本

『中途失聴者と難聴者の世界』

ホンとの本

『中途失聴者と難聴者の世界』
山口利勝
一橋出版
\1470
2003.8.

 たった一つのことを理解してもらうために、百舌を尽くさなければならないということはよくある。何度も叫んでいるのに、目に触れるように掲げているのに、意識して気づこうとしない人には、まるで受け止められないでいるのだ。「立入禁止」だの、「静粛に」だの、まるで効果がない。「駐車禁止」も「禁煙」もそういうものだ。痛みを覚えることがなければ、伝わらない人には何も伝わらない。
 逆にまた、たった一つのことだけを理解してもらえたら、細かな対処はいわばどうでもよい、ということがありうる。自分を好きになってほしい、ただそれだけの願いのために、恋する若者(とは限らないが)は、あらゆる手段を講じるものだ(った?)。
 この本も、身も蓋もないかもしれないが、はっきり言わせてもらう。「はじめに」のところだけ分かれば、それでよいと思う。
 いや、おそらく著者もそういう思いなのだろうと信ずる。
 中途失聴者となり、ネガティブな生き方をしている自分を覚えた著者は、いわば自己実現のために会社を辞め、心理学を学び、助教授となる。ここに、「見かけは健常者、気づかれない障害者」という副題を備えたこの本が誕生する。
 思えば、中途失聴者のことを理解してもらうための主張が、ここまで知られていなかったような状態のほうが、不思議である。どれほど多くの人の悩みと苦しみが日常的にあり、それを理解しようともしなかったかという私たちの鈍感さが浮かび上がってくる。
 この副題には「健常者」とあるが、これは著者自身も、本文ではより適切に「健聴者」という表現を多用している。それでいいと思う。聞こえる者がつねに健全であるという意識からは一旦解放される必要があるだろう。しかしまた、中途失聴者とろう者とが同一レベルで見られているというのは、それ以上に問題となる。ろう者の世界を想定して「健常者」が明らかに引っかかるというのなら、むしろ、中途失聴者のためには、「健常者」として強調されてもよいかもしれない。ろう者は、手話というものがドラマなどを通じてポピュラーになるにつれ、いくらかでも理解がなされているのに対して、中途失聴者や難聴者は、ろう者と一緒にされたり、あるいはまた、健常者とどこが違うか理解されないでいたりするままになっている。だが、ごく日常の生活の中で、始終中途失聴者は困難を覚え、逃げ出したいような場面を迎え、あるいは分かったふりをしなければならないような「空気」の中で、精神的に追いつめられている現実がある。これに、私たちは、気づいてさえもいない。相変わらず無邪気に、難聴者たちを苦しめてばかりいる。どのように苦しめているか、それはこの本を見ればひしひしと伝わってくる。これだけ示されて、自分は苦しめてなどいない、と言える人がいたら、もはや厚顔無恥を通り越えて、肉の心を持たない石のような者であろう。
 要するに、中途失聴者や難聴者は、外見で障害者だとは分からない。そして、その日常的な困難さが理解できず、理解しようともしない健常者がいて、コミュニケーションを欠いても何の自覚もない自分に気づくことすらないのである。もちろん、彼らには手話も通じないのである。ろう者と一緒にされてはたまらない。もちろん、ろう者の中にも、手話を使わない人もいるわけだが。
 読んでいてどきりとしたのは、終わりのほうで、私が先日ご紹介した、山本七平氏の『「空気」の研究』が引用されていたことだ。日本人を包み込み、押さえ込んで染め上げる「空気」に、中途失聴者は気づかない、あるいは抵抗しようとしても全く歯が立たない立場にあるという。この深い精神性への追究に、頭が下がる思いがした。
 いったい、「バリアフリー」とは何だろうか、とも考えさせる。ハードだけ何か装置をこしらえて、無自覚な健常者は、よいことをした、と自己満足している図式がどうしても頭に浮かぶ。そのハードでさえ、点字ブロックを平気で潰している自分のことさえ意識がないのであるから、まことに「バリアフリー」という言葉は、「愛」という命がけの言葉を欲望のために使うのと同様に、汚されているような気さえしてくる。
 どうかすると、自ら周辺とのコミュニケーションを断ってしまう人々がいる。それは安楽な途ではないことだろう。コミュニケーションをとろうとしても苦しむし、とるまいとしても苦しむ。耳が聞こえなくなったというのは、このコミュニケーションの断絶による苦難をまず引き受けるところから始まり、なかなかそこから突破して行けない状態であるとも言える。
 ではどうすればよいか。それは、当事者一人一人によって、また違うことでもあるという。ただ一概に方法を決める、そのこと自体にも、この苦しみを理解しようとしない傲慢さと浅はかさがあるのだろうと思えてきた。
 手話を学べばよいことができる、というふうな安易な発想では全くどうにもならないことを、この本は気づかせてくれる。一部の人々には十分読まれている本であるようだが、さらに広く、ひとつのことを理解するためにも、多くの人に手に取られて欲しいと願う一冊である。




Takapan
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