本

『カレーライス』

ホンとの本

『カレーライス』
重松清
新潮文庫
\590+
2020.8.

 サブタイトルが「教室で出会った重松清」である。たぶんこれ以上の説明はいらない。
 ほろりと泣かせどころを知っている作家である。少しベタなところもあるが、やはり泣いてしまう。だからまた、分かりやすくもあり、教科書にもよく掲載される。
 この教科書というのがくせ者である。学習教材なのである。それはしばしば、作者でも解けないという。作者が思わなかったことが正解になることがあるという。重松氏の場合どうなのか分からないが、私も塾でお世話になっていて、この本の中の「バスに乗って」は実際に教えた。
 そもそもこの本を探して買ったのは、あるラジオ番組であった。毎週聞いている番組で、本を紹介している。大した番組である。それを一人の作家が続けているというのであるから。ある日、そこで紹介された。実に楽しそうに、「カレーライス」を紹介してくれた。それが残らず心に染みてきて、他の短編も入っているというこの文庫を、買わずにはいられなくなったというわけだ。
 ネタバレをやろうとは思わないので、ほどよく紹介するが、タイトルの「カレーライス」は、母親の仕事の忙しいときに、父親が食事をつくるときがある。定番のカレーライスであるが、その味によって、父と少年の関係が動いていく。だか、とにかくこの物語は冒頭が魅力である。「ぼくは悪くない。だから、絶対に「ごめんなさい」は言わない。」から始まるのだ。引き込む力の強さといったら。
 主人公は少年少女が多い。そうでなくても、少年少女の世代の子の心をよく描く。誰かの視点で物語を進めるから、確かに共感しやすい。物語のつかみ所を外しにくい。主人公に気持ちを重ねていれば、見える景色、告げる言葉が、自分のものになりやすいのだ。それ故に、教科書、そして入試問題、受験勉強の素材に使いやすいのだろうと思う。それも、決して難解な心理ではない。一読で、何を考えているか、私たちにはよく分かる。それが分かるようにちゃんと書かれている。小学生や中学生が読解力を身につけるのに、確かに適切であると言えるだろう。
 中には少しきわどい場面もあるが、それは本書の編集の問題である。教科書にきわどいものが載っているわけではない。その辺りは別として、編集者側で選んだ本書は、どれも爽やかである。暗い中に終わることをきっと好まないのだろう。読んでもらって心が洗われるようなもの、希望を抱くことができるような終わり方、そうしたものを提供したいと考えているのだろうと思われる。
 それは、終わり方の分かりやすさもある。たいてい、情景描写である。それは、その物語の内容を象徴しているような景色の描き方をする。非常に分かりやすい。分かりやすくてベタだと思えるほどであるのだが、それでも泣いてしまう。うまいのだ。
 うまいと言えば、さりげないタイトルも、心憎い。本書に収めてあるものは「カレーライス」「千代に八千代に」「ドロップスは神さまの涙」「あいつの年賀状」「北風ぴゅう太」「もうひとつのゲルマ」「にゃんこの目」「バスに乗って」「卒業ホームラン」である。
 大いに心くすぐられ、そしてピュアな気持ちをプレゼントしてもらえるチャンスをくれる。それだけでも十分読む価値があるのだが、本書はもうひとつ楽しみがある。これもあのラジオ番組が紹介していたので、実際に読むのを楽しみにしていたのだ。
 それは「あとがき」である。著者自身が本書の背景などを語るのだが、初めのほうからずいぶんと自虐的に、「教科書で読まされた」あたりからネガティブだとうつむき、「もう死んでいると思っていた」との声に泣きそうになったと告白する。
 けれどもポジティブに考えることもできる、と自分に鞭を当てる。覚えてもらえるではないか。自身、教科書で習った文章は心に残る。その本の著者のことも知る。そうか、重松清もすべての人の心に残ることが期待できるのだ。それもうれしいことではないか、と気づくのである。
 しかし、本書の編集は、2020年の春に進められた、というあたりから、トーンが静かになる。そう、子どもたちが学校に行ってはならない時期である。発行が8月であるから、そのときいったいどうなっているのか、不安なままに本書を世に送っている。子どもたちが読んでくれるかもしれない。懐かしいと大人や若者が手に取ってくれるのだろうか。だが子どもたちは学校に行けない。教室ににぎやかな笑い声が響いていることを祈るように、「あとがき」を綴っているのだ。しんどい情況だけれど、大人もまた、昔の教室を思い起こすかもしれない。苦しい中での子どもたちを助けることができるのは、そうした大人であることもあるはずだ。
 教科書やその副読本に採用されたものは、両手で数えるほどあるのだが、実際にこの本の中でそうなったのは、タイトルの「カレーライス」だけのようである。しかしそれは、教科書のための書き下ろしである。これは文庫として出たのも初めてであるという。
 最後の話は、父親目線で語られるのであるが、小学生の素直な息子に対して、中学生の姉が反抗的である様子を描く場面がある。だがそこには大きな問いがあった。「がんはったら、なにかいいことあるわけ? その保証あるわけ?」というその問いに、父親は言葉を返せない。自分はそう言い切れるか。難しい立場にいたために答えられなかったのか、それとも本当に人生に対して表向きだけ、がんばればいいと声を出しておいて、その実かんばっても意味がないという、ねじれを有していたのだろうか、と悩むのである。
 私はけっこう単純だから、確信をもって、「いいことがある」と言うだろうと思う。それはその「いいこと」が何か、について考えをもっているからだ。「いいこと」が、金持ちになることだとか出世すること、有名になること、世で成功することだというふうに捉えていると、必ずいいことがあるなどとは言えるはずがない。でもその「いいこと」が、そうしたものではない他のなにかであると信じて止まないのであれば、「ある」と言えるのではないだろうか。実際、そう言うだろう脳天気な人間が、確かにここにいるのであるから。




Takapan
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