本

『カルト宗教信じてました。』

ホンとの本

『カルト宗教信じてました。』
たもさん
kindle版(彩図社)
\826+
2017.4.

 カルト村から脱出するマンガがあった。あれは明確に出してはいないもののヤマギシ会であることは、知るひとが見れば明らかである。しかし今回は、明確にその対象を示している。「エホバの証人2世」の私が25年間の信仰を捨てた理由、というのがサブタイトルなのである。
 しかしこうした暴露ものとも言えるコミックエッセイがちらほらと出てくるあたり、カルト組織の中にもいろいろ問題が起こっている、あるいは何かそういう脱退者を生む内実の変化のようなものがあるのかもしれないし、また内実を明らかにしても危険に晒されない世の中になったのかと思うと、かつてとは違ってきたのかしらとは思う。尤も、いまなお統一協会からの脱退についての告白は聞かない。否、たくさん実はあるのだが、メジャーに出てこないように見える。これは身の危険を呼ぶものである。昔ほどではないにしろ、政治的組織の場合、脱退話をひろめることは危ないのではないだろうか。
 エホバの証人の場合は、政治的暴力的な手段は伴わないと思われる。もちろんこのような本が出回るのは気持ちのよいものではないだろうが、近年どうかするとわずかなマスコミも、報道するようになったその問題点が、内部でも問題視されているのかもしれない。
 マンガは、自身の母親がエホバの証人が家庭に及ぶルーツであるあたりから始まり、そこに生まれた自分が、おとなしい性格のせいか、兄弟の中でもひとりエホバの証人に組み入れられ、育てられていったということを描いていく。しかし何か違うという意識は心のどこかにあった。ただ、それを理論的に反論していくような真似はできなかった。これは仕方がない。エホバの証人の理論好きは有名である。実は議論になっておらず論理的でもないということはあるのだが、理路整然と自分たちの中では真理を証明しているつもりであって、聖書の都合のよいところを縦横に引いて、とにかく自分たちの主張が正しいことを根拠づけることに日々邁進している。本部のほうでもそうしたノウハウがまとめられていて、トップダウンで提示されていくので、その情報を的確に身に着け、部下に指導して行くことができる能力がある者が幹部となっていくのである。
 この縦支配の構造と、横での見張り合いの組織から抜け出すのは確かに困難である。しかし筆者は、阪神淡路大震災に対する教団の反応を見て、これは何か違うのではないかという思いが芽生え始める。それからまた、出会った男性が比較的自由な考えをもつエホバの証人の信者であったため、彼と結婚を考えるにあたり、エホバの証人の組織の奇妙さへの自覚が強くなっていく。そして、子どもの病気を契機に、離れていく。
 そもそも子どもの虐待を組織がしているという意識が筆者にはあったわけだが、自分の子が難病で死線をさまようような事態になって、輸血拒否を強いてくるエホバの証人の組織と信者に対して、明確に拒否できると考えるようになるのだ。そのため、輸血承諾を医師に示すあたり、感動的な場面であった。そういう決意は、傍から見れば当たり前じゃんと思えるかもしれないが、決してそんなものではない。ものすごく勇気の必要なことなのだ。
 エホバの証人が迫ってくるような、王国だとか楽園だとかいうものから外れてもいい、子どもが助かり、毎日が笑顔になれるという新しい生活の中で、そんな楽園ではなく、この家族として行くところへ行こうという未来への道に、拍手を送りたくなるのは、一般読者誰でもそうなのではないか。
 このようにエホバの証人から脱出する話を、たとえばプロテスタントのクリスチャンは、喜んで聞くことであろう。しかし、ここは他山の石としなくてよいだろうか。信徒といえども、客観的な正解を握っているのではなく、それは信仰の事柄である。だが、自分たちに理解できた信仰物語や信仰理論を、絶対的真理であるとして人に押しつけるとき、この本にあるエホバの証人と同じことをしていることになると私は断言する。筆者は後に気づくが、エホバの証人のはちきれんばかりの見慣れた笑顔は、実は笑顔でもなんでもなく怖い顔にしか見えないという経験は、そのような経験をしたことがない方にはお分かりになれないだろう。カルトと言ってよいかどうか知れないが、まさしくカルト的な組織を私は経験しているので、笑顔が実は怖いというのは、非常によく分かる。それは、信じているつもりの当人が、実は恐怖のようなものに支配されているのに、表向き笑わなければならないと教えられているために現れる、バランスの悪い精神によって起こる現象なのである。エホバの証人として描かれているのも、そういうことではないだろうか。こうなると、クリスチャンとしての私の、あなたの笑顔が問われていることになる。その笑顔は本物なのか、内実から沸き起こるものであるのか。
 自分の言うことを聞かない相手に対しては、聖書の言葉を引いてきて相手を非難したり、説き伏せたりしようとすることがあるとする。本書で描かれているそのようなことを、クリスチャンも、そして教会も、やってはいないだろうか。本当に、やっていないだろうか。
 それから、こうした脱会者に対して、もう聖書はたくさん、と言われるかもしれないが、聖書が福音であるということをお知らせできるような教会ではありたいと思う。これも圧制的に説くのではなくて、新世界訳ではない聖書を通じて、聖霊なる神が語りかけて目を開かせてくれるというあり方によって、導かれる道ができたらいいと切に願う。その道を、わたし自身得ているのかどうか、についても気をつけながら。




Takapan
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