本

『カルト村で生まれました。』

ホンとの本

『カルト村で生まれました。』
高田かや
文藝春秋
\1000+
2016.2.

 出版当時、かなり話題になったらしい。知らなかったのは申し訳ない。図書館で見かけてびっくりした。ここまでどんと暴露してよいのかどうか、大丈夫なのか、と作者を案じた。これらは実話に基づくものであり、さらに言えば、自分の体験談そのものである。この「カルト村」という呼び名は編集上練られたもののようだが、漫画家というわけでなく、ちょっと絵の好きな、そして稀有な体験をもつ女性から、人々の心を惹きつける作品を生み出すために設けられた設定なのであった。
 私はもちろん、これがヤマギシ会のことであることは、見た瞬間分かっていたが、これまで聞いていたヤマギシ会のことといえば、外から見たその姿であり、批判などであった。それが、ここでは、内側にいた人の目から描かれている。しかも、彼女はその村で生まれ育ったのだ。それでいて、成年を前に村を出て一般社会(と呼ぶしかないようだが考えてみれば奇妙だ)に出てきて、どう適応していくかというあたりを経験している。
 それを具に描いたのだ。しかも、文章よりも漫画というのは説得力もあるし、伝達力も大きい。生き生きと、その中での生活やきまりが伝わってくる。
 そして、読者は驚く。こんな集団が日本にあるのか、と。
 あるのだ。その閉鎖された理想郷では、日本国で保証されている自由も人権もない。一定の理想の下に運営されており、そのための手段は徹底している。作者は子どもとしてそこに登場しており、子どもの目から村を見ているわけだが、世話係と呼ばれる子どもたちの統率長による強制から暴力から理不尽な処罰など、およそ教育界からすれば信じられないようなありさまが平然と描かれている。
 だがこれは告発本のようには受け取られない。のほほんと描き、笑えるように描かれている。作者本人も、村を恨んでいるようには描いておらず、悪し様に罵るようなことは皆無である。素朴に、自分の見ていた世界を描いているだけであり、たんに自分には合わなかったという程度のコメントしかしていないように見える。だから、出版しても村から攻撃されるようなことがなく、平和に閲覧されているようである。
 これが、もし幸福の科学であったなら、完全に違う様相を帯びていることだろう。もちろん、最初から出版がなされるはずがない。あらゆる人物、それも歴史上だけでなく存命中の人物でも、天皇でも構わず、その霊がこう言っている、と好き勝手なことを思いつきのままに出版して、宗教の名のもとに莫大な利益を上げておきながら、内部から告発するような本を出そうとでもしたなら、法律を持ち出して、あるいはその他の方法で、阻止することは目に見えている。そう考えると、ヤマギシ会というところは、ある意味で懐が広く、良心的であると言えるのかもしれない。
 そもそも親と子が一緒に住めない、金銭は全く手にしないというのも奇妙で、共産制をさらに徹底したような村の運営であり、食事にも激しい制限をかけ、子どもたちは頭の中には食べ物のことしかなかったようなことが描かれているので、信じられないような風景ではあるのだが、そう言えばプラトンが考えた「国家」はなんだかこれと近いような気がしてならないとふと感じた。ある意味で確かに理想郷なのだ。人間が幸福な社会を送る上で、良い条件が並んでいると言えるのかもしれない。暴力的な統率にしても、それにより、そもそもが大人には逆らえないという育てられ方をすると、そういうものだということで人生観ができていき、それはそれで一つの幸福を感じることは間違いないであろう。
 こうして、このカルト村の風景は、いくら呼んでいても異様であり、奇妙であると私たちは感じてならないのだが、立ち止まって考えると、このカルト村の構造は、この社会の真実の姿であるようにも思えてくる。会社にこきつかわれ暴力的圧制の中ですべてを我慢させられ強制され暮らしている世の中というものは、このカルト村の、悪いように見えるところを全部背負っているような気がする。しかし、カルト村の住人には、一定の満足感はあるのだ。そこから脱しようと全員が思うようなことはなく、そこにある豊かな自然や争いのない人間関係を堪能することは多くの場合可能なのである。この私たちの、自由と人権を謳う社会のほうが、もっと悪いカルトであるのではないか、という目が芽生えてくる、そんな読書を経験した、不思議な気持ちになるのであった。




Takapan
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