本

『科学者は神を信じられるか』

ホンとの本

『科学者は神を信じられるか』
ジョン・ポーキングホーン
小野寺一清訳
講談社ブルーバックスB1318
\840
2001.1.

 科学をあなたのポケットに。これをモチーフとする講談社ブルーバックスシリーズの中に、異色の本が混じっていた。これは驚きである。これは、確かに物理学者としての著者の解説が入っている。しかし、この本で物理を説き明かすつもりは毛頭ない。テーマは神学であり、神学の議論のために、物理学の知識を例に挙げるだけである。
 繰り返すが、この本は、キリスト教神学の本である。
 著者は、物理学者にして、英国国教会の司祭でもある。科学もキリスト教も、どちらも必要であり互いに語り合うことが重要だと考えている。この立場が貫かれ、たんなる護教論にも終わらず、徒に科学の立場から宗教を見下すようなこともなく、バランスよく、しかも信念に基づいた書となっている。
 文体について特徴的なことがある。それは、自分の信ずるところを、はっきりと述べていることである。「私は〜と思っている」と訳出されているのが効果的であろうと思うが、科学的に現在のところ真理だとされている事実と、この著者の信仰あるいは信念というものとが、明確に区別されているということである。ちょっとしたことのようで、これが実に読みやすくさせている。この人が独自に考えている部分がはっきりそれと分かるからである。この辺り、もしかすると科学者としての特質であるのかもしれない。どこが科学の領域で、どこが信仰の領域であるのか、意識しており、またそれを明らかにすることが自分の義務であると感じているのではないだろうか。
 まず、宗教と科学との関係を、歴史をも交えながら説き明かす。次は、創造主なる神への視点をもたらす。そして宇宙へと目を向けるとき、偶然と自由の問題が持ち上がってくる。では人間とは何か。科学者は祈ってよいのか。奇跡とはいかなる現象なのだろうか。終末はどう理解されるか。こうして最後に、タイトルにもなっている、科学者は神を信じることができるか、という問題で締めくくるという展開である。もとより、それは邦題であって、原著のタイトルは、邦題のサブタイトルに使われている「クォーク、カオスとキリスト教のはざまで」に近い。従って邦題は訳者の選択である。これは効果的であったかもしれない。日本の土壌でこの本を世に問うときは、このタイトルでなければ人は本を手に取らないだろう。
 この本がブルーバックスシリーズに迎え入れられたのは、科学による技術がもたらしたもの、その意味を問うのに、哲学的な検討が必要だと考えられたためであるという。人間の世界観に、科学はどんな影響を与えたのか、またどんな存在としてそこにあるのか。これを考える機会は、実のところ科学に興味をもつ人々においても多くはないだろうというのである。まことに、科学哲学とはそういう側面であるし、時折偉大な科学者が科学の社会的な存在意義や科学の利用についての警告などをもたらしているのも事実である。この本の中では、多くの物理学者が、神の存在へと結びつく観点へと思想が向かっている事実をも挙げている。もちろん、すべての物理学者がそうだというわけではないにしても、物理学者にとって神が必ずしも無関係であるとか否定されなければならないとかいう性質のものではない、という指摘にはなることだろう。
 著者の神学は、科学とは無関係に唱える神学とは一線を画すかもしれない。しかし、物理学という、人間が観測し理論を立てる最前線の科学の場面の中でもなお、聖書の神学が通り進んでいけることを示す意義は大きい。神は創造の時のみならず、今もまた我々と関わりながら世界に関与している、というこの神学は、決して聖書から離れたものでもないのである。
 この本が本として優れているのは、その内容に拠るばかりではない。さすがに科学の書である。まず、索引がある。これは多くの本で実現してほしいことであるが、殊に私たちの目に触れる多くの本では、索引は必要がないものと見なされる傾向がある。違う。索引は本に付せられるべき、最小限のサービスなのだ。
 それから、もう一つ、これはブルーバックスならではのことだろうか。つまり、キリスト教については知識のない日本の科学関係の読者を想定しているからであろうが、キリスト教の用語や聖書について触れた場合に、章末毎にていねいな用語解説が注釈として載せられているのである。もちろん、物理学用語にも注釈はあるが、この聖書関係の注釈がまた、実に簡潔で的を射ている。すべて訳者注であるが、訳者に拍手を送りたい。




Takapan
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