本

『隠された十字架の国・日本』

ホンとの本

『隠された十字架の国・日本』
ケン・ジョセフ シニア&ジュニア
徳間書店
\1,500
2000.12

 日本にキリスト教が伝わったのはいつか。1549年にザビエルが伝えた、と書いておけば、歴史のテストは通過できる。だがそうか。日本文化をよく知る人は、キリスト教が遥か以前から伝わっていたに違いないことを強調する。シルクロードを経て、遅くとも四世紀、早ければ二世紀あるいはそれ以前から、キリスト教は日本に伝えられていた、と。
 十二弟子の一人トマスは、インドへ宣教に出たことは確実と言われている。アッシリアへ伝えられた原始キリスト教は、東西交易の道シルクロードから極東地域へ及んだこともまた、それと同じくらい確実なことなのだという。言われてみれば確かにそうだ。歴史の教科書の固定観念に囚われて、人間としての行動や心理の基本的な性質を無理に否定するような気持ちに、私もなっていた。仏教以前に、日本にキリスト教があったはずがない、と。
 ケン・ジョセフ親子は、景教の研究者である。景教とは、いわゆるネストリウス派のキリスト教で、異端扱いをされ、東方へ活路を見いだしたグループである。聖母マリアを崇拝することに異議を唱えた点で、最古の宗教改革であると評価する人もいる。親子は、ルーツをアルメニアにもち、そこから日本に伝えられたキリスト教を発見しようとする。ジュニアのほうとは、私は実は間接的ながら接触がある。ジュニアは、ボランティア組織を設立し、被災地や海外で苦難に陥った日本人のトラブル相談にも応じている。キリスト教を活動の基礎として、ボランティアを運営している彼らのために、幾らかの送金をしたのだ。その後、ちょっとした連絡の行き違いから離れてしまったが、彼らの活動は、大震災のときにも伝えられたことで、立派な活動だと尊敬している。だから本来、ボランティア活動家だと思っていた。だが、歴史研究家であったのだ。
 渡来人の中でも大きな勢力をもった秦氏が、キリスト教に関係しているかもしれない、という説は聞いたことがある。実際、京都の太秦など秦氏にまつわる歴史遺産は、少々並の寺とは変わっている。だが、広隆寺にある弥勒菩薩像の弥勒が、インドの「マイトレーヤ」に由来し、それはヘブライ語の「メシア」であるというのは知らなかった。いや、その太秦さえ、「イシュ・マシァ」あるいは「イエス・メシア」の音であろうという。その他、秦氏にまつわる京都の地名の中に、同様にキリスト教に関係する名称をいくつも見いだすくだりは、京都にいた私にとって実に面白い。
 なお、秦氏から流れ出た姓として、秦、畑はもちろんのこと、羽田、八田、半田なども挙げられているのも興味深い。服部や羽鳥もまたその流れにあるなど、この本はついつい深入りしてしまいそうな魅力がある。
 蚕ノ社には三位一体にまつわる形式の神社があるとか、悲田院を作った光明皇后(聖武天皇の后)も、景教の医師に触れ、公にはできずともキリスト教を信じ、それゆえにナイチンゲールよろしく看護に邁進したとかいう話が立て続けに読ませる。
 日本文化というものも、思いのほかキリスト教に関するものが多いということも、細々とした事象を挙げて実証しようとし、それどころか日本仏教がアジアに広まる仏教とまったく趣を異としている理由として、日本の仏教には、密教や浄土教に、キリスト教が深く関わっており、聖書の思想を取り入れつつそれらが形成されたからだ、と主張するあたり、なかなかの説得力をもった記述となっている。
 秦氏は、平安京をつくるのに尽力したが、考えてみれば、平安京という名称は、平和の都ということで、まさに「エルサレム」と同じ意味である。祇園祭や稲荷神社などもすべてキリスト教との関わりがあると記すと読むだけで楽しくなり、仏教を日本に取り入れたという聖徳太子については、政治的・意図的にそういうふうに記録し信じさせようとしたことの証明に、ずいぶん頁を割いている。なるほど、馬小屋で生まれたなどの伝説がキリストと重なるにも拘わらず、聖徳太子自身については十分な歴史的記録が乏しいときている。秦氏と関係が深かったことは確かなのだが……。
 歴史を覆すのかどうかは分からない。はたしてこの本の推測がどれほど正鵠を射ているのかは、私には判断できない。ただ言えるのは、読んでいて面白い本だということ。そして私は、日本仏教と敵対するのがキリスト者のあり方ではなく、それをも覆い包むようなものとしてのキリスト教を改めて感じている。その意味で、日本という国を誇るのならそれは必要なことだと思う。そして、いわゆる右派の主張するような、国を愛する心というものが、いかに狭く、思いこみに基づいているのか、を論破する糸口として、この本の指摘は活かされていくべきではないか、と考える。偏狭な軍国思想が、愛国なのではない。古代の京都もそうだが、様々な外国の文化を受け入れ、豊かな交流があった国際的な都市の姿の中に、それらを柔軟に受容していた日本の良さがあった。そういうヒューマニズムに満ちた国としての日本を愛することを、この本の著者は願っているに違いない。
 だからよけいに、国を愛することを強制しようとする輩の偏狭さと悪意を感じざるをえない。それとまた、そうした国を愛することすべてにケチをつける急進さも、反抗的であるに過ぎないという気もする。私たちは国を愛するべきだと思う。神さまが愛されたこの国を、そして神さまのために何かができるこの国を、愛して、誇りに思うことは可能だと思うし、そうしていきたいと強く願う。キリスト教が、日本の文化のベースに流れているという、この本の指摘は、それだけでうれしい思想ではないだろうか。




Takapan
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