本

『十字架につく神』

ホンとの本

『十字架につく神』
戸田伊助
新教出版社
\2000+
2006.8.

 シリーズがあるらしい。これは「共に生きようとされる神◆第一講」となっている。また、副題が付いており、「十字架上の七つの言葉」とある。著者の集大成をこめたシリーズとなりそうである。十字架の七言は大きく取り上げられているものの、それの解釈や探究というよりは、それをひとつの軸として、死と復活にまつわる様々な思いが語られている、と受け取ったほうがよさそうである。
 2002年に牧師を隠退して始めた聖書集会の3年分の講義を集めたものを3分冊にするのだという。従ってこれは、いわゆる礼拝説教ではない。またテープを起こしたものであるので、終始書いた原稿であるとは言えない。それだけに、生々しい語りがそこにある。もちろん、読むために編集されているので、通常の文章として読めばいい。
 だがそうなると、聖書の解釈を続けるとか、そこからメッセージを届けるとかいう色合いよりも、自らの体験を告げる向きが多くなることは予想される。そこで気づくのは、生い立ちや経験の語りである。特に、著者は戦争体験がある。死と生の意味を問う中で、特攻へ向かうその寸前で、戦争は終わった。この微妙な生の経験が、信仰や考え方に大きな影響を与えるのは当然である。また、仏教にも造詣が深いようで、時折これは仏教の本ではないかと思ってしまうくらい、詳しく仏教思想が展開していく一幕もあった。
 仏教にもいろいろあるだろうが、概して、仏教への理解が強いと、そこに日本的な思想、たとえば「無」という概念が伴うと見られる。同じキリスト教でも、そこに「無」の思想が大きな位置を占めることがあるのだという。それは信仰者でなくても、西田幾多郎のような思想家がキリスト教を捉えるときに、理解していくための窓のようなものであり、何か西洋風な神学に満足しない日本人キリスト者もしばしば、発見をした、というように無の窓を使うことがあるようだ。本書の著者もそれと無関係でないように感じる。だが、行き過ぎた解釈をすることはない。きっと、仏教一本だったお年寄りが何人かいるような教会で、仏教ではこのように聞いているがそれと遠くないものもどこかにある、その入りやすい入口を紹介することが多かったのだろう。突然書物としてこのように示されると違和感を覚える読者がいるかと思うが、礼拝と牧会の中での語りとあっては不思議なことではないだろう。
 ともかく、戦争体験が語れるというのは貴重であり、戦争を知らない大多数の世代にとり、耳を傾けなければならない内容である。死生の瀬戸際を歩いた人の見た景色、その心が置かれた様を豊かに語る体験談は、金で買えない大切な宝であると理解する。
 だから、これが何も聖書講義に徹していないとしても、苦にはならない。私としては、釈義の内容かと思って取り寄せたのだが、予想外のものを受けたような気がしても、心地よかった。いや、そんな感想では失礼になるだろう。しみじみと聞かせて戴いたという次第である。中には、やはり説教とは違うという勢いで、聖書理解としてもどうだろうかと案じる場面がないわけではなかったが、自分の体験とそこから与えられた信念には十分敬意を払うべきであると理解した。
 十字架の七言を直接扱う箇所は少ないが、聴衆との交流が豊かであることを思わせ、最後には質疑応答の内容が並べられている。「キリスト教が生命を取り戻す突破口」についての質問もあり、「戦中でのキリスト体験に問題があったことに気付いた」という内容を深く追及するものもあった。やはり、戦時下の体験は尋常ならぬものがあるのだ。私たちはそれをよく聞いておく必要がある点は確かであろう。
 どうしてもこれは言っておかなければ。そのような思いを、このシリーズで果たすつもりなのであろうと感じる。読者としても、それをまずは受け止めようではないか。そして、それぞれがまた十字架を負うこととなればいい。




Takapan
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