本

『説教 十字架上の七つの言葉』

ホンとの本

『説教 十字架上の七つの言葉』
平野克己
キリスト新聞社
\1700+
2022.3.

 ようやく手に入ったのが、5月。待ち焦がれていた。
 副題に「イエスの叫びに教会は建つ」とあるが、すべて看板に偽りなしであった。加藤常昭先生の弟子として、日本の説教をいま背負っているような人の、実に意外なことだが、初の説教集である。これを期待しないで、何を期待すればよいのであろうか。
 時は2020年、イースターを前にした2か月の間。覚えておいでだろうか、新型コロナウイルス感染症に、教会ばかりではないが、日本中が翻弄されているころである。誰もが前代未聞の事態に、どう対処してよいか分からない中で、著者は、イエスの十字架上の七つの言葉を一つひとつ拾って、受難週まで説き明かし続けるという計画を立てていた。公共交通機関を利用する信徒は家に留まらせ、初のリモート礼拝という形を毎週とり始めるのだ。
 七つの言葉を取り上げる説教というのは、珍しいことではない。ただ、著者の場合には、師である加藤常昭氏の『黙想 十字架上の七つの言葉』という本がすでにある。これをモチーフとして、編集サイドからこの題が提示されたのだという。光栄な思いで引き受けたものの、事態は世界的パンデミックの中である。特にヨーロッパあたりの悲惨な情況がニュースに上がり、日本でも学校が休校になって皆がオロオロしている最中であった。
 しかし、そういう時だからこそ、イエスの言葉が私たちの胸を打つ。命の言葉が迫ってくる。当初の予定にはなかった事態に、説教そのものは、ますます磨かれていくように、私は感じられた。
 30頁足らずが1回分である。最近の一般的傾向からすると、少し長めにも見えるが、私からすれば、引き締まった説教である。聖書の言葉の引用は、左右に余白をつくっているから、分量が過多ではないはずである。しかし、この方法は、聖書の言葉だけが特別扱いをされており、それが際立って目に入るように仕掛けられているものだと理解している。説教の言葉は、確かに神の言葉のひとつである。しかし、何よりも聖書そのものの言葉が、ひとに命を与えるものである。それが、目にはっきりと映り、それをせめて三行読む分の時間、見つめ続けていくように仕向けているように感じられてならないのだ。
 一つひとつの説教の最後には、その週の感染状況や、教会の対応などがレポートしてある。それが、現実の緊迫感を伝え、いっそう一つひとつの説教に、真摯に向き合うべきことを教えられる。よい企画だと思う。これはただの説教ではない、現実に人々がこうした苦悩の中にあったことを、刻み込む言葉により現れた出来事なのである。
 身近な人のエピソードや、本の話、原民喜の詩など、実例や味わうべき言葉をも活用するけれども、概ね説教は、聖書の本文に基づいている。関連する他の聖書箇所をも引用しながら、イエスの生き方全体に行き届く世界を、聞く者にまざまざと見えるように示す。時に、イエスの十字架上の言葉を、繰り返し繰り返し、寄せては返す波のように、私たちの魂に響かせてくる。
 本書の説教は、1日ひとつずつ味わってきた。復活祭の分まで、八つの説教が入っている。完璧な構成だと思うが、もう1日ひとつというのが、限界だった。それ以上はもう私の魂には流し込めない。1日の人間の霊的な許容量が、それで満たされてしまうのだ。
 ああ、こういう説教がしてみたい。でも、できない。そう、これはもう「格が違う」のである。他の誰のどんな説教集を味わっても、この著者のものには及ばない。どう表現してよいか分からないのでただ繰り返すが、「格が違う」のである。
 想像するに、イエスの説教というものも、恐らくこのように、他のラビや学者たちと比して、格の違いを見せつけていたのだろう。群衆が押し寄せたのも、これを聞けば神が近づいてきてくれる、というリアルな感覚を受けたからなのだろうと思う。
 説教の中身は、直に触れて戴きたいので、一切ここではご紹介しなかった。実際にお読みになることが、イエス・キリストとの出会いへの道だろうと信じて疑わないからである。ただ、本書で、イエスの十字架と復活の業の出来事が完結するわけではないことだけは、最後に私の思いとして、お伝えしておく。この言葉を受けて、次の情景をつくるのは、読者一人ひとりであり、いまここでは、さしあたりこの私自身なのである。
 各説教の最初に、恰も水墨画のように掲げられた、井上直氏の油絵もまた、心に迫るものがあった。センスの良さなどという言葉で評するのは失礼なくらい、これはもう、魂を揺さぶる、説教と一体化した、神の心であった、とご紹介すると、少しは失礼にあたらなくなるだろうか。
 こうやって建つのが、本物の教会である。私の現実の教会があまりにも惨めであるだけに、本書の副題「イエスの叫びに教会は建つ」が、よけいにイエスの無残な姿と重なって見えてくる。このとき私には、「教会は立つ」と見えたのだが、それでもよかっただろうか。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります