本

『危うし! 小学校英語』

ホンとの本

『危うし! 小学校英語』
鳥飼玖美子
文春新書509
\860+
2006.6.

 NHK番組を通じて活躍している人なのだなあと思いつつ、ここでは英語教育の話に聞き入ることにした。要するに、早期英語教育への反対論である。言おうとしていることは最初から明白であり、早期英語教育がうまくいくとは限らないということを、様々な事例と思いつく限りの理由を持ち出して、読者を説得しにかかるという一冊である。
 私がこれを古書店で格安で見つけて手に取ったのは2021年。著者が懸念している、小学校における英語の必修化が始まり、教科として運用が始まっている。いま改めてどんな論を提示してくるのかというところに興味があるが、きっとまた反論の証拠を探しているというあたりなのだろうか。
 4技能のバランスが謳われている。が、かねてから言い訳として掲げられている、読み・書きはできても、聞く・話すができないのが日本人だ、だからそれを身につけるには子どもの時が一番だ、というような発想に、釘を刺していくことになる。もちろん、聞く・話すを強くすればよいというのはひとつの定道なのだが、残念ながら、読み・書きのほうも、日本はアジアの近隣諸国に比べて見劣ること甚だしいというデータも探して見せてくる。これはかなり厳しい。そしてその背景に、大学教育をはじめ、中高における英語教育や生徒の立場や状態などを暴露していくことになる。
 主張というのは、かくありたいという見本のようである。自分の論のために役立つことは何でも使い、徹底的に反対論を潰していく。だからこれだけ聞いていると、本当に英語の早期教育が悪の権化であるかのようにすら思えてくる。
 たとえば、教育を動かしているのは、多くの親の安易な思い込み、またマスコミに乗せられてなのかマスコミを乗せたのか知らないが、英語に対する一般の誤解なども要因となっているのだという具合だが、日本の英語教育全般への視点もきちんと提示し、今後の英語教育への提言も行っているので、議論の上では隙がないようにすら見える。
 実際、英語教育に携わっていた現場の経験もあるのだから、文法の理解も大切だということは説得力がある。私もその通りだと思う。
 ただ、ここでいう「英語教育」というのは何であるのか、少し気になった。要するに、文科省による学校の教科、教育制度としての英語である。もちろん英語教育というのは基本的にそこである。だがそれは、英語を生活上必要とすることが殆どないような子どもたちをも広く含んだものである。たとえば、野球選手が活躍すると素晴らしいということで、全国の体育に野球競技を取り入れるべきだなどという考えが通用するようにはとても思えないのだが、さて、英語教育というのも、本当に全員の義務教育で最高の効果をもたらすように運用されていかなければならないものなのだろうか。
 英語について、もう少し自由化ができないのだろうか。アメリカでは、英語を外国語として教える必要があるのは、違う文化をもつ子どもたちであるかもしれない。アメリカで生まれアメリカで育った大多数の子どもたちは、英語を外国語として学ぶことはないのだとしよう。この時、その子どもたちは、外国語として何を選ぶだろうか。特定の言語ひとつに傾くのだろうか。かつてラテン語が必修であるような時代が歴史の中にあったかもしれないが、いまはどうなのだろう。ある話では、フランス語がやはり多いらしい。続いてドイツ語、また日本語やイタリア語という声も高く、中国語もかなり多いとのことだ。
 さて、日本の教育における外国語も、英語しかないという状態から変えられることはないのだろうか。画一的に、すべての子どもに英語を、ということになると、やはり画一的な制度が必要になるときに、うまくいく子といかない子が当然出てくる。その、いかないところを拾い出して、英語教育はだからだめだというような角度で攻めてくる議論があるとすれば、それはフェアではないと思う。
 本書がそのようなアンフェアなことをしている、と言うつもりはないが、こうまであらゆる面で早期英語教育がだめだと徹底してくると、本当にこれはフェアな場となっているのだろうか、という気になってくる。
 もちろん、新書で徹底した議論ができるとは思えない。あくまでも一つの面から主張すればよいのである。しかし先に挙げたように、万人に押しつけるような英語という言語の教育は、いろいろな環境や性質の子がいる中で、ある子にはうまくいくが、ある子には難しいというようなことも当然起こってくるはずである。
 だから、これは著者が悪いのではなくて、小学校英語という教科が、次の中学校での英語の独占状態を含め、教育における外国語という概念の決定がある社会全体で考えなければならないことであるのかもしれない。
 著者は、他の著書でもよく用いているようだが、「異文化」とのコミュニケーションが大切だとしているようである。この本でよいと思ったのは、この「異文化」が、たんなる言語だけの問題ではないという意識をもっているという説明だった。自分とは違う生活をする人の生活を理解するための道を拓くとよいのである。ろう者であってもいい、視覚障害者であってもいい、身体に障害をもつ人は、どんな生活を強いられ、あるいは不便な構造の社会で生活しているのか、それをほんの少しでも理解したいと思う気持ちからまず入るような、他人との対話やコミュニケーションが大切であり、またそのスキルを養うという教育が好ましいものであること、その中で、英語というものを見ているような部分があるように感じたのが、よかった。
 誰かを悪者にするのではなく、なおかつ喫緊のこの英語教育の現状への楔という点で、私たちは実際何かを大きく変えなければならないのかもしれない。結局私たちがどうするのか、それが問われている。著者は、そのためのひとつの貴重な情報を提供してくれたのだ、と考えておきたいと思う。




Takapan
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