本

『コロナの時代の僕ら』

ホンとの本

『コロナの時代の僕ら』
パウロ・ジョルダーノ
飯田亮介訳
早川書房
\1300+
2020.4.

 2020年2月から3月にかけて、イタリアのローマで綴られたエッセイを、日本では早川書房が「翻訳権独占」を果たして、4月に店頭に並べたという、書店としては自信の一作である。イタリアは、これが書かれた当時、3000人ほどの感染者を出している。これは累積である。私がこれを読んだ時には、福岡県だけで1日にそれより遙かに覆い新規感染者を出しているから、数字だけを考えると、不思議な感情に見舞われる。ただ、イタリアはその後、この訳者が目の当たりにしている段階で、死者が1万6千人ほどになつているという。当初、イタリアの医療現場の逼迫や、居並ぶ棺桶の映像は、世界を震撼させたものであった。
 著者は、物理学者であり、作家である。文章が巧いのだろう、文学賞も受けている。従って、短いこれらのエッセイには、お洒落な装いも忘れることなく、しかし深刻な事態を的確に伝える点でも申し分ないものがある。初期における不安は、その後のことを見越しているが、やはりもう少し早くこの事態がなくなるように希望しているように見受けられる。だが、懐いている感情や見込みについて、決して的を外したものがあるようには見えない。「感染症とは、僕らのさまざまな関係を侵す病だ」(p13)は、正にそうであろう。「感染症流行時に助け合いの精神がない者には、何よりもまず想像力が欠けているのだ」(p45)も至言である。
 分断された人々の関係、しかしそこに心のつながりが、まだありうるのだということを、希望をもって見出している限り、やはりそこにはカトリック精神が漂う国なのだろうというふうにも私は思う。人々の間で、不安から奇妙な憶測が飛び交ったり、陰謀論が生まれたりしている様子も描きながら、それでも最後は「われらのおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」(詩編90:11)を以て結論とするあたり、ほっとするような気がする。
 ところでそれで終わったかと思ったら、最後に長い「著者あとがき」が付いていた。私は、こちらの方に心が惹かれた。まずこれは「戦争」ではない、と著者は言う。何か敵をつくって欺瞞に導くものである、と批判するのだ。人々は近寄ることが許されず、哀しみの人が増えていることを思いやる。非常事態を受け容れる心をもち、根拠のない楽観をもつべきではない、とし、元に戻りたいというだけの願いに対して、本当に「元」でよいのかどうか、問いかける。
 慌てふためく人々の陰で、地道にルールに従い、助け合いをしていた人々のことを、著者は見つめている。この人たちのことを、忘れはしない、と誓う。専門家に対してやみくもに不信感を広めた輩がいるが、それが犠牲者を増やしたことも、忘れないだろう、とする。このようにして、「あとがき」の最後のほうは、「僕は忘れたくない」から始まることを、幾つも幾つも紡ぎ出している。まるで、「幸いなり」とまず言って、人々に呼びかけた、山上の説教のイエスのように。
 そして、家にいよう、と呼びかけ、患者を助け、死者を悼むこと、そして「まさか」と不意をつかれぬよう、目を覚まして生きよう、という言葉を投げかけて、本書を閉じるのである。
 この「あとがき」は、エッセイとは別に、新聞に掲載されたものであるという。日本語版に、これも併せて特別に掲載が認められたのだという。これを、いちばん魅力的だと思う読者がいるのではないか、と訳者は「訳者あとがき」で記していたが、私はまさに、そのように思って読み終わった。そして、パンデミックに陥って2年半を経てもなお、これらの文章は決して古びていないということは、著者の感覚と知恵が、いかに優れていたか、を物語っている。コロナ禍を知る方には、いつ読んでも、感じるものが多々あることだろう。




Takapan
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