本

『共同幻想論 改訂新版』

ホンとの本

『共同幻想論 改訂新版』
吉本隆明
角川ソフィア文庫
\590+
1982.1.

 2012年に亡くなったことを「追悼」するというカバーが掛けてあるものを入手した。何を今更読んでいるのだ、と言われそうだが、買っておきながらなんとなく敬遠していたというのも事実で、それが巣ごもり生活を強いられた中で、向き合わねばならないだろうというところまで迫られた形になった。
 内容については、下手に私がする必要はないだろう。「解題」の中で引用されている、松尾瞭氏による紹介の文章を以て、ご存じない方にもあらましだけ見て戴こう。
 【共同幻想】(下部構造)に対する幻想領域(上部構造)を幻想領域の内部構造として解明しようとするとき、吉本隆明は三つの軸を設定する。一つは文学や芸術において示される個的幻想であり、一つは家族や性の問題で示される対幻想であり、もう一つが政治・国家・法・宗教の問題として示される共同幻想である。吉本は、たとえば、この共同性を装った幻想の一態様としての日本国家、個々の人間の幻想性の総和としての日本国家についてその起源・構造等を原理的に考察することによって日本における大衆の問題、政治運動の問題を根源的に把握しなおそうとする。ところで、このように宗教・法・国家を幻想的な共同性として理解するしかたはマルクスの初期論文「ユダヤ人問題によせて」「ヘーゲル法哲学批判」に示されていると吉本はいう。(松尾瞭)(『文芸用語の基礎知識』至文堂刊)
 著者自身の談によると、前半部は昭和41年から翌年にかけて『文芸』に掲載されたものに加筆訂正をくわえたものであるといい、後半は書き下ろしとなっているという。「禁制論」「憑人論」「悪人論」「巫覡論」「巫女論」「他界論」「祭儀論」「母制論」「対幻想論」「罪責論」「規範論」「起源論」から成り、ひとつのテーマに論考を重ねていくという構成となっている。その際、日本に古来伝わる思想や考え方の例として用いるのは、『遠野物語』と『古事記』に絞っている。このことについては著者が「後記」にすぐさま記している。多くの資料に基づいて説いていくのが筋であるかもしれないが、著者はここで学術論文を提出しようとしているのではない。あれもある、これもあると触れまわることを選ばず、典型的な資料をふかくほりさげていることが適切であると考えたのであるという。
 学術論文を著す必要のない多くの思索者にとり、これは非常に参考になる方法だと感じた。学者は多くの資料を手にする機会があり、また語学的にも恵まれていよう。本書の場合は古事記という日本語ではあるものの、古文についてはやはり誰もが簡単に読み解きうるものではない。しかし古事記ひとつであれば、注釈書なども入手しやすいし、それなりの訳が出ている。読者としてもそこに的を絞ってあると分かりやすさがまた違う。ただ、もっと別の資料により検討されるべき部分があるだろうことも確かではある。しかし、日本思想の根底に具わるものを読み解こうとするときに、あらゆる本や資料を引っ張り出してくる必要はない。ひとつの筋を提示すれば、あとは読者が、別の資料ででもその捉え方が適切であるか、調べたり考えたりしてくれるのではないか。また、それを期待してよいのではないか。そのように思われたのである。
 著者自身の主張となると、本書を直に読んで戴くほかないし、それはマルクス思想を踏まえてのものとなっていくことは避けられず、私の手には負えない。「疎外」というベースから、人が自己なるものをいわば否定する構造の社会へと巻き込まれていかざるをえない事情を把握しようという視座は、決して古びないものがあるだろう。本書は日本思想の中での神話や民話の中にみられる、思想枠の萌芽またはその支配を段階的に説いていくことになるのだが、その『遠野物語』は本当に面白い。日本昔話という程度を超えて、日本人のものの考え方を支配している一定の構造をいやでも意識せざるをえなくなる。娘が行方不明になり獣か怪存在者に囚われていくとか、不遜なことをして罰が当たる話とか、そういうの、ありだよね、という気持ちである。
 さて、個人から性的な関係を含む他者への進んだ後、社会を形成していくとなると、やがて国家なるものが互いに了解されていくことになるというわけだが、もちろん、歴史の中でこのような発展段階をもっていついつが対幻想期である、などというような捉え方をすべきではないだろう。これらの起源をそれぞれに求めるというよりも、内部構造のような問題ではなかろうかと考えたいのだが、それでも、この「国家」というものは、やはりよくよく考えておかなければならないだろう。私たちは自分の生まれ落ちた環境、育った時代の空気というものに支配されている。世の中はこんなもの、国家とはこういうもの、と自分の馴染んだものしか考えられないのが普通だが、待てよ、こういうのもあるのではないか、今の時代のこれはやはり拙いのではないか、そんな視点を持ちたいものである。歴史を学ぶ意義はそこにあるし、民俗学的にでも古代文献研究でも、自分のいまいる世界や思想を相対化する働きがある研究は、様々に役立てられるべきである。それは過去の歴史の制度をやり直そうなどということにもならないはずである。歴史は展開する。過去と同じことは普通できない。新たな歴史を経験した上で、また新たな時代をつくるようにしかできないはずである。
 それにしても「国家」とは何だろう。私はよく言うが、「戦争」という言葉は古代にも現代にも同じように使う言葉としてありうるのだが、その語の指している内容は雲泥の差がある。破壊力や危険性、とにかく概念的に全く違う行為を、同じ「戦争」という言葉で表現し、コミュニケーションし合っている。しかし「ペロポネソス戦争」と「太平洋戦争」とを同じ「戦争」と呼ぶこにとはどだい無理があるというものであろう。同様に、「国家」あるいは「国」という語から理解されるものについても、時代や地域により全く異なるはずである。日本にも「クニ」というまとまりがあったとされているし、ギリシアではポリスと呼ばれる都市国家であった。それらを同じ国家という語で括って理解し、共同幻想だとして指摘して扱うのは困難である。
 だから、日本での「国家」も古代と現代とは異なるはずであるが、いま私たちの組織する「国家」というものには、扱い方によっては多大な危険が伴っている。それは一つの幻想なのだという程度の理解の仕方でも、あったほうがないよりはよほどよいのである。互いに想定して認め合っている「国」という呼び名の代物が、すでに右派左派だけでも全然異なることは周知であろう。著者の思惑をどれほど私たちがそのまま受け止めることができるかどうかは分からないが、きっとその真摯な思索に刺激されて、私たちは新たな視座を獲得し、批判を重ねていくようにしなければならない。その意味で、敬意を払いつつ、この本は読み継がれていくべきであろうと考える。




Takapan
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