『コーダ きこえない親の通訳を担う子どもたち』
中津真美
金子書房
\1800+
2023.12.
コーダという言葉も、いくらか知られるようになってきた。きこえない親をもつ、きこえる子どものことである。英語の表現の頭文字である。「きこえない」というのは、きこえにくいなどの総称であることを、本書は最初に断っている。ひとのきこえにくさというのは個々人により異なるため、正確さを意識すると、簡単に表現できなくなるからである。
著者自身、コーダであるという。本人の体験が、大きな動機ではある。だが、それがすべてではない。コーダ同士が出会う機会は、案外少ない。そこで、研究者として著者は、多くのコーダからのデータを集めた。すると、著者自身の体験や感想とはまた違う、いろいろなコーダの生い立ちや考え方を知ることができた。こうした心理は普遍的なものとして論理立てることは難しいが、実例をたくさん集めることは可能だ。
しかし、コーダの何をどうまとめるのか。本書は150頁足らずしかない。だから、テーマはひとつである。サブタイトルにあるように、「きこえない親の通訳を担う」ことについてである。
そこには、その子と親との関係ももちろんある。また、子ども自身は生まれ落ちたときからそういう環境にあるわけで、子どもとしてはその価値判断も何もできない。だから、コーダであると共に、研究手法を知る、著者のような存在が必要なのだ。
コーダとは何か。そしてコーダは親と具体的にどのようなコミュニケーションをとるのか。それらについて全く知らないような人に対しても、きちんと示す作業が、前置きとして置かれる。そして本題の「通訳」というテーマに入ってゆく。「きこえない」親は、「きこえる」人々との間にコミュニケーションがしづらい。というよりも、一般社会が、「きこえる」者たちに都合のよいようにできている、と言ったほうがいいだろう。
しかし、そうした問題を取り上げようというつもりは、本書にはない。というよりも、その暇がないのである。
コーダーのインタビュー、きこえない親へのインタビュー、これが本書の素材であり、強みである。このとき、周囲の人々の理解や反応というものも、大きく影響する。ごく最近ならまだしも、かつては、ろう者に対する偏見と無知とが普通であり、きこえない親であることを知られたくない、と思うようになった子どもたちがいても当然だった。しかし、それも確かに個人差がある。周囲に理解ある人がいたときには、もっと開けっぴろげにもなりうる。事実、アンケートの統計を見ていると、近年でのこととはいえ、不幸な感覚や社会への不満といったものが、案外少ない。
それどころか、親として、きこえない自分たち親から生まれてすまない、というような気持ちがいつも出てくる子どもたちにとって、何もこれは不幸ではない、という強い意志が多く感じられるのは、頼もしいと思った。できればそうありたいとは思っていたが、実際、そういう場合が多いのだ。
でももちろん、すべては個人差の内にある。個人差があるのだが、統計上、多数という点は評価できるだろう。その上で、個々人の感想というものも、味わいがある。親はコーダについてどう思っているのか。親子関係はどうであったか、またいまどうであるか。
こうした資料を素に、著者は、必ずしも学問的ではないあり方で本書を結んでいく。それは、当事者として自身がそうであったことを含め、そして多数の実際の考えを集めたことを踏まえて、著者が現時点で考えることをまとめるのである。
それは、まず周囲の方々への声となる。特別なこととして見てほしくないわけであるが、現実にコーダと出会ったときにどうして戴きたいか、丁寧に語る。それから、きこえないて親たちへのメッセージも書かれる。通訳の必要性、しかしコーダだから手話ができる、というように自動的に扱うこともできないのであるから、どうか特別ではない、あたりまえの親子であることへと開かれてゆくことができないか、著者なりに考える。最後に、コーダへのメッセージ。コーダとして、どうするとよいのか。正に自分自身の問題であったことだろう。それは、自分というものを見つめ直すことから始められるべきだという。取り巻く世界を知り、他のコーダについても知ることができるようになるとよいと話す。そして、コーダである自分だからこそ、できることがあるのだ、という、前向きな気持ちで歩んでいくことが望ましいものだ、と結ぶ。
それは必ずしも学問研究ではないかもしれないが、データに基づく、希望のメッセージであった。現実の厳しい問題や、社会の改善など、課題も多いだろうが、このような観点は、爽やかな風を吹き寄せてくる。それがいい、と私も思う。

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