本

『シネマで読む旧約聖書』

ホンとの本

『シネマで読む旧約聖書』
栗林輝夫
日本キリスト教団出版局
\2400+
2003.9.

 大学のキリスト教学の授業で用いた、映画を以て聖書を説くという企画を単行本化したものであるという。旧約聖書の初めの創世記から預言書、そして僅かだが続編に至るまで、聖書のストーリーが網羅してある。これはいい。学生にも好評だったという。
 映画好きな学生なら飛びつくような話題である。なにしろ、映画の中に聖書の精神が描かれているというのだ。いや、その映画の謎解きのようにさえ思える、聖書的解説。思えば、西洋の文学には聖書とギリシア思想が二つの源流であると言われる。ことに聖書は生活の中に溶け込んでいるため、気づかないところにまでその考え方や表現が潜んでいるものと思われるし、映画を制作する時にも、意識的にか知らず識らずか、聖書がバックボーンとして含まれ、あるいは支えているということが当然ありうるだろう。聖書を知らずして、西洋文化は理解できまい。映画とてそれは同じ。映画の台詞はもとより、そのストーリーや構成そのものが、聖書的でありうるのだ。
 私も映画は嫌いなほうではない。詳しくはないが、ここに挙げられたもののうちのいくらかは観たことがある。または、題名くらいは聞いたことがあるのが多い。「ソドムとゴモラ」「十戒」「サムソンとデリラ」「キング・ダビデ」のように聖書そのものを描いたものももちろん含まれるが、まさかその映画に聖書的背景がこうも濃くあるのかと驚くような作品までたくさん紹介されている。これは楽しい。事実、著者自身、こんなに楽しんで本をつくることはなかったとまで言っている。
 時に、字幕の不備をも指摘します。聖書を知らないためにちんぷんかんぷんな訳になっているのを見たことがあるのだそうだ。挙げている例は僅かだが、きっともっと多く随所にあるに違いない。それは文学作品でも同じで、さすがに近年はよく気づかれるようになっているだろうが、それでもただ英語だけはできるという人が翻訳すると、聖書を知らない場合におかしな訳になってしまうであろうことは容易に想像できる。まことに、英語を学ぶということは、その文化を理解するということであるはずだ。ただ買い物ができるとか、道案内ができるとか、そういうために英語を使うわけではないのである。
 英語にはほかに、シェイクスピアという巨人がある。この言い回しを知らないと、洒落た台詞にもきょとんとせざるをえない場合があるだろう。ただ、どちらかというとシェイクスピアは教養の部類に入ることが多く、それに対して聖書は生活の隅々にまで浸透しているものと思われる。信仰をもっていなくても生活の中にあるということは、私たち日本人における仏教思想と生活文化の関係に近いものがある。なにげない言葉も仏教由来というものが多々あるように、また考え方にそれが潜んでいることがいくらでもあるように、西欧文化には聖書が隠れているものであろう。まして、映画という文化を創造するときにはなおさらで、言い回しの問題に限らず、ストーリー性に聖書的思想や発想からきているということは、自然にあるのだろうと思われる。
 ともかく楽しめるという意味でも、本書は群を抜いている。聖書の説明において、ややリベラルな立場からの断定が強い点だけに気をつければ、映画ファンならずとも楽しめるものであることは間違いない。




Takapan
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