本

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』

ホンとの本

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』
J.D.サリンジャー
村上春樹訳
白水社
\820+
2006.3.

 もちろん少し考えれば分かるのだが、『ライ麦畑でつかまえて』と耳にしたほうが肯く世代の人は多いだろう。元々は第二次大戦後まもなく発表された小説であり、いかにもアメリカ人好み、などと言うと通ぶっているみたいだが、なかなか日本文学ではこうした小説は輝かないものだろう。あるいは、最近はそうでもないかもしれない。
 しかし華やかな社交界を描くというものでもない。言うなれば落ち零れとなった若者が、ふわふわと場当たり的に彷徨う中で、いろいろな出会いをしたりつまらない諍いを起こしたり、世の中面白くないぜと危ない歩みを続ける。決してサクセスストーリーではない。それでも、自分の心の内に沈んだり絶望したりするわけではなく、どんな奇妙なことも表面的に自分の沸きを通りすぎるような感覚でやり過ごしもする。根に持っても、これから面白い人生が待っているわけでもないのだ。
 小説であるからネタバレをするのはよくないと理解している。ホールデン・コールフィールドは高校の退学処分をくらう。成績がよくないのだという。理解あるような顔をした先生もとんでもないし、友だちや女の子との交わりもあるが、日本人から見て深いつながりであるようには見えない。病気で亡くした弟の陰がつきまとうのも、ホールデンの言動の背後で影響を与えているようにも見える。学校には自分のほうから背を向けニューヨークへ向かうが、年齢を誤魔化そうとしても、社会は容赦なく牙を剥いて襲う。それでもへこたれない。友だちを頼って会うけれども、助けになることは殆どない。
 最後に家に帰るときに、少し救いがあるようにも見えるが、さて、それが何であったのか、私たちに放り投げられているようなものだろう。
 タイトルは、途中でふと耳にする歌の歌詞なのだが、それが少しだけリフレインされる。作者は何かそこに意味を見出して描いているのだろうと思うが、読者にはひとつの謎のように投げかけられているだけだとすべきだろう。
 大人たちは自分を理解してはくれない。その不平不満に満ちていると言えばその通りだし、今ではどうということがなくても、際どい表現がないわけではない。当時はアメリカでも問題とされたらしい。
 しかし、社会には共感を呼んだ。ここから影響を受けていろいろな作品が生まれているし、今回の訳者である村上春樹氏もそうである。もともとこのアメリカ小説が村上春樹の文体だとも言われるが、翻訳となると何かと軋轢や手続きがあるだろうが、今回このように訳出したものが世に問われることとなり、村上ワールドに慣れた人は、文体からしても、これを村上作品だとして受け容れても違和感を覚えることはないだろうという気がする。かつての訳と比較するようなことは私にはできないが、たぶん村上色が出ていることを、比べると示しているものだろうと思う。
 いまの日本でも、このような、居場所を見つけられないような精神状態の若者は少なくない。その意味では、いまの若者世代にこれが案外ちょうど共感できるものとして見出されるのではないかという気がするのだが、さて、この翻訳が出てからいま私のいる時代までがすでに十数年。これがセンセーショナルに紹介されたことが、発行当時はあったかもしれないが、いま別に誰も話題にしないでいる。日本風には、ホールデンは決して気骨のある若者のようには見えないが、彼よりもなお、いまの若い子たちは気骨なるものを失っているのかもしれない。しかしそれは、世の中にただ反抗するばかりでなくても、対峙する形をとる生き方をわざわざ取らなくても、なんとかやっていける社会になっている、ということを表しているのだとしたら、必ずしも悪いことではないかもしれない。
 たとえば新海誠監督の映画「天気の子」では、この小説がさりげなく、家出した少年に抱えられており、彼は社会と折り合いが付かず、一種の犯罪に手を染めることとなる。だが彼が、世界を変える営みをつくりだすというストーリーになっていた。映画は大ヒットしたが、この少年の生き方が肯定されて迎えられたというような評は聞かれない。困った少年だ、とその行動は黙殺されている。ということは、このホールデンの生き方もまた、誉められたものじゃない、という見方がされるのであろうか。
 でもホールデンは、捨て鉢になったり大人にやたら噛みついたりするのではなく、ただ心の中で、大人たちを軽蔑し、暴力にもじっと耐えている。だとすれば、もっと私たちは見直してよいものをもっているのではないかとすら思う。だからこそ、リスペクトされ、いろいろな作家が辿っていると説明できるのだ。
 もう一度、広く知られるきっかけがあればいいのかもしれない。無抵抗なままに、気骨を示す若者を救う光となればいい。




Takapan
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