本

『教会に生きる喜び』

ホンとの本

『教会に生きる喜び』
朝岡勝
教文館
\1800+
2018.12.

 発売のときにも気にはなっていたが、教会にまつわる日常的な話であるような気がして、買うまでのことはないかと感じていた。それを書店で直に見たので、ぱらぱらとめくってみたところ、その文章が実にいいと思い、その場ですぐに購入することに決めた。やはり書店で実際に見るという価値はこういうところにあるものだと思う。
 汎用性が高いなどというと機能的に本を捉えているだけのように聞こえるかもしれないが、教理について、また信仰生活の核心を突く問題について、きちんと示してある本だということを強く感じた。それには著者の人柄もよく出ている。長くない原稿ではあるが、いくつか文章に触れたことがある。また、SNSでの発言も誠意あるものとして見えていた。ただ、政治的なことに熱意があるような印象も与えていたので、もしそういう系統の本であったら、私がとやかく関わるものではない、というふうにも見込んでいたのだ。世間には、一部のキリスト教関係ではあるが、憲法がどうとか政治がどうとかいうことについては威勢のいいことを叫んでいるばかりの本もある。そういうものかと誤解する余地があったのだ。しかし実際に見てみると、そうしたことは少しも出さず、教会を建てあげるための話、とくに自分が若い、経験も浅い立場で牧師として赴任してからの歩みや人との出会いが丁寧に、また話題のために効果的に綴られていると感じた。こうしたものは、いくら威勢よく政治的な主張で叫んだとしても、実地に苦労した方でなければ話せないはずのことなのだ。
 人と人とが織りなす、小さな神の国の物語。私は教会での体験記を、そのように捉えている。神の言葉の支配のもとにあるならば、そこにはきっと問題もあるが、同時に導きというものが必ずある。そうなると、それを証しする本書のようなものは、聖書そのものをよく理解する道をも教えてくれているはずなのだ。聖書の教えを実践するということは、教会のひとつのあり方からしか見えてこないものなのである。
 魅力は、本を開いてすぐの「はじめに」の冒頭から漂ってくる。堅苦しい挨拶や、抽象的な理屈から入るのでなく、ある人が教会に訪ねてきた、というエピソードが語られ始めるのである。心憎い本のスタートだと思った。ついつい引き入れられるではないか。
 本編に入ると、まずは教会とは何かという問題を、いささか抽象的なところから入る。確かに本書は、クリスチャンのための本なのだ。しかも、教会というものをまとめあげるため、教会を生かすためにはどうしたものだろうかと頭を抱えるような、牧師や心ある信徒が導きのために開きたい本として最適である。だから、教会論が始まってもよいのだ。そして教会が礼拝というものに焦点を置くものであるという共通認識に至る。こうしてこの本は、教会論であると共に、礼拝論でもあることになる。礼拝を抜きにしての教会はない。もちろん建物のことではない。共同体としての、キリストの弟子たる人間が互いに同胞と思い手をつないで希望の仲間を形成するためには、神が中心でなけれはならず、そしてまた礼拝を核としなければ成立するはずのないことなのだ。
 すると焦点は礼拝の中に見出していくものとなり、話題は説教から洗礼へと進む。一つひとつが、現実体験に基づいた、しかも教理を適切に踏まえたものであり、私は非常に誠意のある、そして実のある読み物となっていることを感じた。もちろん、その次には主の晩餐が説かれ、現代の渡したならではの視点も踏まえながら、教理的な対立を誘うような呼びかけでなく、聖書とイエスその方だけを見つめながら、自分と神との関係に注目するように私たちを促す。
 その後は伝道や交わりなど、教会生活の実際のためにも頁を割くが、少しばかり政治的な問題にも足を踏み入れる。嵐の中の教会という章のタイトルは、もちろん、オットー・ブルーダーがヒトラー時代の村の牧師の戦いを描いた同名の著書に基づくが、そこで描かれた牧師に憧れるという告白もあった。それは、いまのこの時代を見つめる確かな眼差しの故でもある。これはこれで大切な心得となるはずである。
 教会に生き、教会に死ぬ。しかし私たちには希望がある。教会に生きる喜びがある。それは根拠のない掛け声ではない。聖書にしがみつこうとする論理武装でもない。日常、教会で集い祈り合う中で、確かに聖書の言葉に導かれていく旅に当然与えられる恵みである。そのためには、まず一人ひとりが、イエス・キリストと出会うことから始めるのでなければならない。単なる理屈ではないし、ただの暴走でもない。確かに足取りは、聖書の言葉が支えることだろう。そのために助けの声がかかることがあるとすれば、本書のような呼びかけではないだろうか。誠実で真摯な言葉の綴りが、私たちに快い風を吹き込んでくる。さあ、あとは私たちがその声を聞き、歩き始めるかどうか、である。
 教会の学びのテキストとしても逸品であると思うが、如何だろうか。




Takapan
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